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No2.「続・コンテンツの“+α”について」 |
2004.6.5 |
(承前)というのは、昨年はテレビの視聴率問題が話題になりました。また、TBS-MRIは今年になって、公的な番組ライブラリーのことについて考える機会を持ちました。前者においては、番組の商品価値の尺度が問われ、また後者においては「商品」(消費財)としての番組と文化(蓄積財)としての番組の関係が一つの焦点でした。
通常、番組の価格は[制作コスト+(権利に関する)市場の相場価値]で決まり、それは広告費あるいは対価で回収されます。ここで、NHKの受信料はどうなるのかという問題がありますが、それはまた別途考えることにしましょう。
ところで、制作者はより多くの人に見てもらうことを目指して番組を制作し、それは視聴率として定量的に示されることを前提にしています。そのために、制作者たちは世の中の流行り廃りに敏感で、マーケティング手法も導入することになります。その意味では、テレビは時代と添い寝をするメディアです。
では、そうした分析から企画が生まれるかといえば、そこには決定的な何か、つまり「何を伝えたいか、あるいは表現したいか」という思いがなければ番組として成立しないのです。当然ですね。さてそうだとして、制作者たちはどこからその「思い」を手に入れるのでしょうか。いうまでもなく、それは彼らの存在それ自体、つまり世界との関わり方からであり、したがってテレビを越えた世界からです。テレビのことだけを考えていては、テレビに関わったことにならない所以です。そうした「思い」があることで、テレビは「時代との添い寝」を一つ踏み越えて、「時代と向き合う」ことが出来るのだと思います。
ということは、番組は商品として流通しますが、視聴者(消費者)は実は[商品としての価値+「思い」の享受]を潜在的に期待しているはずなのです。それが商品の中に含まれる要素なのかそれともその外に存在するものなのか、そしてその部分をどう評価するのか、それは数値化可能なのか、なかなか容易に答えは出ないでしょう。しかし、この「思い」という“+α”を考えることから、コンテンツ論を組み立てることが問われているのです。特に、それはメディアの内部から提起されるべき問題であり、そうでないと制作者の主体的なコンテンツ論が不在のまま、デジタル万能論に取り込まれてしまうのではないかと思うのです。
そう考えると、テレビマンユニオンの重延さんの言うように、制作にも経営者にもやはり「哲学」が必要だということになります。
ともあれ、贈与や消費について考えることはメディア論に新しい可能性を開くことになるはずです。中沢新一さんに感謝。
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