
No7.「何かを手にすれば、何かを失う」 |
2004.8.20 |
小学校の同クラスの友人たちの会合があるというので、鎌倉に出かけた。4歳から13歳まで暮らした街は随分変貌していたが、あの「鎌倉的雰囲気」はさほど変わったとは思えなかつた。「鎌倉人」が多少のプライドを持って自覚しているであろうし、そこを訪れた人たちはさらに一層強く印象付けられるであろう独特の空気。「切通し」の内と外では空気の濃密さが違うようだ。
少し早めに到着したので、暑さにめげず駅周辺をブラブラ。古書店があったので立ち寄ってみた。古書店というのは好きだ。限定された専門書店ではなく、さりとてあまりにも雑多でもない、それなりに一つの気分を醸しだしている店の書棚というのは眺めていて飽きない。ゆっくりと視線をめぐらせていると、時々向こうから背表紙の題字が目に飛び込んでくる。そんな出会いを久々に楽しんだ。なにしろ、古書店そのものが少なくなってしまったのだから。
高見順の「激流」を購入、千円。
奥付に、初版は昭和1963年に第一部。1967年に合本刊行。購入したのは1980年の第9刷。定価二千円とある。600頁。雑試連載中に切れ切れに読んだ記憶がある。単行本も買ったかもしれないが、いま手元にはない。商家の兄弟の話で、兄はエリート学生で左翼運動に関わり、弟は屈託なく生きて行くが、兵として2.26事件に遭遇。兄が挫折を経た後に満州に身を転ずるところで、作者の死により未完のままになった長編小説だ。かつて読んだ頃の気分を思い出しつつページを繰っているが、フト思えば、今この手の文学がウケるとは思えない。近代日本の精神史のテキストとして研究者が関心を示す、そういう存在だろう。そう、思想というものの位相や、人の生き方と時代との関わり方が全く違ってしまったのだから。
ということは、たとえば「激流」に手を出す僕や僕たちの世代とその後では、おそらくとても大きな落差があるのではないだろうか。僕たちは旧世代の尻尾、団魁の世代は新世代のはしり・・・かもしれない。もちろん、世代論というのはあまり信じてはいけないのだが、それにしても60年代はそういう意味では時代を画するものだったのだと思う。それは、戦前・戦後という区分けより大きな分水嶺に違いない。三浦雅士の「青春の終焉」も、状況変化の区切りをそういう認識で描いているようだ。そこを境に、青春という言葉は死語になったという。
前回、時代がテレビを追い越したと書いたけれど、テレビはこの大きな変化にどう対応したのか、それとも対応できなかったのか。何かを手に入れれば、必ず何かを失う。テレビは、その分水嶺越えで何を手にし、何を失ったのか、そろそろその自己検証をする時期だろう。何故ならば、デジタル化とはただの技術変化ではない。産業構造も制度も変わる。テレビのあり方が変わる。メディアとしてのテレビが変わる。変わらざるをえない。携帯向けサービスも蓄積型もビジネスとして考えるのも結構だけれど、伝達者としての僕たちはどう変わるのか。黙って腕を組んで考えても何も見えてこないのは分かっているけれど、せめて考えることくらいしないと、ホントに何も見えないままに明日になってしまう。
ところで、テレビの古書店は成立するか、しないとすればそれは何故かというのは、デジタル時代の隠れたテーマではないだろうか。
(前回の「断言肯定命題」、「テーマよりもモチーフを、モチーフよりもマチエールを」は、いずれも詩人谷川雁の言葉。但し、モティーフと表記それている。)
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