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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No8.「汽水域」 2004.9.5

 「アレは何んていう言葉だっけ」とか「どういう字だっけ」とか思うことが増えてきたのは、歳のせいということもあるだろうし、PCで仕事をするようになったからといこともあるのでしょう。「汽水域」というのもその一つです。

  オリンピック特番の喧噪の合間に、NHKが四万十川のドキュメンタリーを放送していました。こういう番組をこういう編成(土曜日21時)で放送してしまうところが、NHKのNHK的なところなのでしょう(ホントのところはどういう事情か知りませんが・・・)。民放なら、「オリンピックの『客』をどう引っ張るか」と考えるでしょうし、この手のドキュメンタリーは一週先でも腐らないと思うでしょうから。
  頭の部分の数分を見られなかったので、文字による解説があったのかどうかは判りません。河口のあたりの淡水と海水が入り混じる領域を「キスイイキ」といい、それが四万十川では河口から6キロほども遡っていて、これが多様な魚類や植物によって独特の生態系を形成している、というナレーションが度々出てきました。熱帯系の魚、干潟の動物たち、体長1メートルを越す赤目という巨大魚、寒暖差の大きい海水と淡水の入れ替りによって繁殖する青海苔、川辺の花、昆虫、鳥たち。
  キスイイキってどう書くんだっけ?途中で辞書をとりに行くことも出来ず、見終わってから調べてみたら、「汽水域」でした。

  さて、些か牽強付会かもしれませんが、テレビとは汽水域のようなものなのです。報道とエンタテイメントの混在、いわゆる総合編成だからこそ可能な多様な情報の形態。視聴率についての様々な議論がありますが、「一人でも多くの人に見られること」はやはりテレビの基本構造です。これはやはりエンタテイメントの世界に依るところが大きい。この「より多くの人に」を基盤に、「知る権利」に応えるジャーナリズムが成立します。そして、その中間領域にワイドショーからドキュメンタリーにいたる様々な表現領域が錯綜します。まさに、テレビは汽水域なのです。専門チャンネルが成立すれば、総合編成は消滅するというものではありません。あるいは、蓄積型サービスによるタイムシフト視聴により編成権は視聴者に移るというほど、テレビというメディアは簡単な仕組みではない。新しいメディアのあり方は、テレビという既存のメディアに大きな影響を与え、その地位を相対的に押し下げます。だから、テレビは未来永劫安泰だということはありえません。そう思った途端に、テレビは映画産業の轍を踏むことになるでしょう。しかし、テレビの原点は何処にあるかといえば、やはり汽水域型構造ということになるでしょう。

  ところで、最近はエンタテイメントといいますが、その根っこは芸能、演芸でしょう。そこには、どこか妖しげな空気があります。おそらく、中世に成立したであろう芸能という存在そのものに、その秘密があるのでしょう(網野喜彦さんを読もう!)。近代化とか市民社会化は、時間をかけてこの妖しの世界を遠ざけてきましたが、それでもどこかにこの雰囲気は残っているはずです。都会から「闇」が放逐されて街は明るくなったのに、繁華街には「健康・健全」だけではない何かが漂っているのに通じます。
 エスタブリッシュメントの立場にたってしまったテレビは、この妖しげなモノとどう付き合うか。テレビは「ハレ」のメディアではなく「ケ」のメディアだと思いますが、それはメディアの社会的あり方であって、制作者は常にハレを目指します。人の目を惹きつけることにつきまとう妖しの魅力あるいは危うさ、そのこなし方こそモラルだけではなくスキルの問題でもあると思うのです。これもまた、汽水域であるテレビの構造なのです。

  テレビの強さと危うさ、祭りと日常、猥雑さと真っ当さ、汽水域としてのテレビ、それを心得ていた先輩の一人が磯崎洋三さん(イソさん)でした。元TBS社長であり、メディア総研の相談役だったイソさんは、8月25日に逝去されました。私が最後にお目にかかったときの言葉。「テレビは編成だよ、編成を頑張ってくれ。そうみんなに伝えて欲しい」。ご冥福を祈ります。

[講 演]

8月18日  「メディア政策の展開とTV・2011」
岡山夏季広告セミナー (岡山広告協会)




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