
No9.「行為としてのテレビジョン」 |
2004.9.20 |
フトしたきっかけで、村井純さんにおめにかかりました。村井さんはインターネットの第一人者と言われている方で、IT戦略(最近は、ICTと言いますが)のキーパーソンでもあります。当然、村井さんはネットワークの高度化の観点から地上波のデジタル化にアプローチし、こちらはテレビを足場にしてデジタル社会を想定するという関係になります。先日はその第1ラウンドで、こちらからの簡単なプレゼンテーションを行いました。いずれ、第2ラウンドがあるでしょう。
さて、この出会いが縁となって11月に村井さんの大学(慶応大学の環境情報学部)で話をすることになりました。いま、合間を縫って少しずつメモを作っているところです。あれやこれや考えていると、「こういうことか」と思うことがあります。政策というのは骨太で直進的なものであるべきだ、しかしその影響は複雑で多面的なんだということなども、その一つです。
例えば、デジタル時代のテレビに関わる事項を「技術」「制度」「政策」「産業」「メディア」の5つの論点として括ってみます。これ自体が結構乱暴な括りだと思いますが、とりあえずそういうことにしてみましょう。さて、そこに関連する項目をランダムに書き込んだのが別紙の図(クリックで図表にリンク)です。いわば、議論の途中でその経過を記録しておくために、ホワイトボードに項目をメモ書きにしてその関係を矢印で結んだようなものですね。
これだけの事項の全てを関係付けて一枚の図にするのはとても無理です。三次元的な表現も必要でしょうし、そこに時系列の要素を考えると完成図を想定するのは不可能です。
ただし、ブレストの途中のメモだと思えば、いかに論点が相互連関しつつ複雑多様かということが見えてくればそれでいいわけですから、それなりの意味もあるでしょう。
ということで、もう一度政策とは何かと言うことに話が戻ります。e-Japan計画による世界最高のネットワークの構築にしろ、地上波の2011年デジタル完全移行にしろ、この目標がブレるようでは混乱だけが生じます。但し、硬直した目標設定では諫早湾の水門になることも確かですが、こうした例は論外です。
政策目標と政策過程は、常にフィードバック機能が働くべきです。
さて、情報分野においてある政策目標が想定され、それを実現するための具体的な政策手法が選択されると、図に書き込まれたほとんど全ての事項に連鎖的な反応が起こります。当然、テレビにも波及します。しかし、その反応がどれほど大きなものでも一定のベクトルの幅の中であれば、時差を伴いつつもその余波は吸収されていくでしょう。それが政治の力学というものだと思います。この場合、「経営にとって厳しい状況」
とか、その延長の「業界再編」(があるとしての話ですが)というのはベクトルとしては「一定の幅」のなかだと考えられます。
ところが、違うベクトルの場合何が起こるか。この「違うベクトル」が最も多く生じる場は、図でいう「メディア論」の部分でしょう。というのは、この「場」は政治の力学からの遠心力が働くことで、あるいはそれと対峙することで成立するからです。だからといって、政策とは無縁であるはずがない。では、どうするか。
これこそ、テレビに関わる人間がまさに「主体的」に対応するしかないのです。一方では、デジタル化という技術の必然性とその政策課題を客観的に捉えるとともに、他方ではその渦中にありながら政治力学から身を引き離して試行する、それがテレビの現在だと思います。思考ではなく試行です。ここに、「行為としてのテレビジョン」というテーマが成立します。行為としてのテレビジョンが最も具体的且つ鮮明に問われるのは、いうまでもなく報道や制作の現場です。しかし、同時に例えば経理や人事でもそれは変らない。あるいは、テレビの原点を確かめ将来を想定するために論理を探る、それも行為の内だと思います。結局のところ、「行為としてのテレビジョン」とはテレビ局の経営理念そのものだ、そもそも「免許制度の下でメディア機能を果たす」というのはそういうことだったのです。もちろん、理念だけでは経営は成立しませんが…。
このことを逆から見れば、
デジタル時代の、あるいはネットワーク社会のテレビジョンのポジションを決めるためには、「メディア論」からテレビの位置と機能を見据えつつ、したたかに政策過程に踏み込む、そういう離れ業が求められているということになります。
ウーム、そんなことが出来るだろうか…。
|