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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No10.[「浅草田圃酉の町詣」連想] 2004.10.5

 樋口一葉の張り詰めた息遣いが伝わってくる。
その息遣いに重なって、樋口一葉と向き合っている著者のときめきを感じることが出来る。「樋口一葉『いやだ!』と云ふ」(集英社新書)の著者の田中優子さんは、江戸学者として著名だけれど作家としても素晴らしい、そう思った。こういう読書は、こちらもドキドキして楽しい。
 とはいえ、この本の批評をしようというのではない。第一、樋口一葉を読みこなしているわけでもなく、それに「明治文学を江戸から読む」という切り口は面白そうだと思うものの、何か言うほどの力量はもちろんない。ただ、この本の口絵にある一枚の絵から連想したことを書いてみようと思う。
 この絵、歌川広重の「浅草田圃酉の町詣」が、何の予備知識ももたずに表紙をめくったとたんにパッと目に入ってきた時に、「アア良い絵だ」と思った。吉原の一室から見た景色だという説明がある。
 格子の出窓の腰に白い猫が座っていて、外を眺めている。何を見ているのだろう。二階の部屋からの景色だ。武蔵野の果てに富士山。江戸では富士山はこんな風に見えていたんだ。太陽が沈んだ直後で、秩父連邦の稜線の背後は赤々としているが、上空は青から黒に変わろうとしている。窓外の近いところに、残照の中の農家が二軒。その先は、闇が迫っている一面の田圃。冬枯れが近い。そこに、木立かと見紛う人の列。確かに(ルーペで見ると)熊手を持っている。なるほど、酉の市なのだ。手前の部屋内が明るいのは灯が入っているのかもしれない。縦長の構図の左端は細く屏風で区切られていて、その上の部分は陰になっている。屏風の端から見えているのは手折られた花かと思ったが、酉の市の簪だという。とすると、客が買って来たのだろう。つまり、屏風の向こうに客と遊女がいるということだ。
 屏風からもう一つ、口絵の大きさだからかもしれないが、ホントにチラッと何かがのぞいている(これは、絵を見るということを超えて、緻密な観察力がなければ見落とすのが普通ではないだろうかと弁解したくなる)。それが紙束というもので、床で使うものだということまで読み取るのは素人には出来ない相談で、流石に専門家は凄いと思った。ついでに、猫の横に置かれている手拭は男物だという。では、その横の椀のような、鉢のようなものは何だろう。
  ・・・絵を見せずに絵を説明するのは無理だ。
  作者の読み込みを本で味わって欲しい。で、田中優子さんの読み取ったものや感じたことにも唸ったけれど、その屏風の向こうに遊女と客がいることを、そしてその情感を、この構図とモノ(道具)で表現する絵師の腕にも感服した。描かないことで描く。

  確かに、映画でもテレビドラマでも道具というのは重要な意味を持つことがしばしばある。それが、説明的であれ、象徴的であれ、監督や演出家は道具に拘るものである。しかし、その道具の意味は観る側に伝わらなければ意味がない。といって、過度にそのことを強調すけば、全体の構成を壊すことになる。どの程度に道具の意味を伝えるかはなかなか難しい。それにしても、映画やテレビであれば、カメラが移動すること、対象に接近すること、フォーカスのとり方、編集によるモンタージュ、加えてCGによる効果など、道具の意味付けの表現手法は多様である。もう一つ強力な方法は音響であって、仮に誰もいない部屋の映像があるにしても、音で意味付けすることは可能だ。
 時間表現である映画やテレビでは、格別に注意深い観客だけがさり気なく置かれている道具の意味を理解するのを待っているという構造は成立しない。観ている時間内にほとんどの客に「なるほど」と思わせることが大事なのだ。それが商品としての映像の条件だろう。もちろん、映像だって「見せないことで表現する」ことは珍しいことではない。ただ、「そういうことなんだよ」ということまで伏せると、何がなんだかわからなくなる。
 一方、絵画では絵師や画家は鑑賞者と勝負することが可能だ。オレの描いた世界を誰が読み解いてくれるのか、という傲慢さともいえる世界があるように思う。観るものは、何時間でも立ち尽くしてその意味を読み取ろうとする。「観る」は、「凝視する」ということ。推理作家と読者の関係に近いのかもしれない。絵は動かないから時間と無縁なのではなく、そこに濃密な時間が塗りこめられていると考えたほうが良い。時間を切り取ることで、時間を固定させるあるいは時間を断絶させる写真とはまた違う。写真に写っているモノを読み解く作業としては、赤瀬川原平さんの「鵜の目鷹の目」が抜群に面白い。
  もちろん絵画にもいろいろあるから、これが普遍的な解釈かどうかは分からない。それが「アウラとその喪失」につながる話なのかどうか、どこかでつながるように思うのだが、それも良く分からない。「浅草田圃酉の町詣」を観ての連想だ。この絵の原寸が分からないので、本物(があればだが)を観るとまた違う思いがあるかもしれない。
  連想ついでに言うならば、作品は、絵画、映画、テレビ、あるいは舞台でさえ、いずれにおいても表現者の想像力と鑑賞者の想像力の相乗作用で成立する。小説や評論、劇画、アニメ、みなそうだ、音楽だって。エンコードとデコードという言い方もある。ここから話はまた違う展開、テキストとしての作品という問題になるのだろうが、それを語るだけの蓄積も方法も、残念だが持ち合わせていない。
  思えば、何であれ作品と向き合った直感を表現のレベルに高めるというのは容易ではない。しかし、ある作品と向き合った時に、その人は同時に作者の存在とわが身とを二重映しにする。批評というのはそのようにして成立するのだろう。そして、そこから批評と創造の相乗作業が始まる。
  では、テレビ批評というものがなかなか上手く成立しないのは(と、見えるのだが)何故だろう。多くのそして世代を超えた、優れた批評者群を産まない(あるいは求めない)ジャンルは、それだけで危機的だ。テレビジョンが50年かけて作ってしまった不幸がそこにある。それとも、そもそもそんなものは不要だったのか。
  それにしても、息遣いやときめきをテレビジョンは伝えているだろうか・・・。



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