
No11.「
異才・宮田吉雄さんのこと
」 |
2004.10.20 |
宮田吉雄さんが亡くなりました。
今年は、身近な人たちの訃報が続きます。そのなかで、宮田さんの死は、なんと言っていいかわからないほどの思いをこちらに残すものでした。
宮田さんのことを語るのは難しい。宮田さんを知っている人には夫々に強烈な宮田像があり、知らない人にそれを言葉で伝えるのは容易ではないからです。
博覧強記の人や何かについて造詣の深い人というのはいるものです。でも、宮田さんのそれ、知識・教養・美意識はもっと違うものでした。それは魂と呼んでも良い、そういうものだったのだと思います。多様な世界が渾然として宮田さんの中に渦巻いていて、それを表現しようとする激しい思いと表現方法とがいつも格闘していたのでしょう。宮田さんの才能はテレビという器に嵌らなかった。しかし、ではどのジャンルなら宮田ワールドに相応しかったかといえば、やはりテレビジョンでしかなかった。だから、最後までテレビの世界に踏みとどまったのだと思います。 宮田さんの表現は「聖」ではなく「俗」でした。でも、常にそこには宮田さんの魂の深淵がのぞいていたと思います。完成された「聖」なるものを破壊して、その断片を「俗」の中にちりばめる、そしてそれは「聖」への限りない執着があったからこそ可能だったと思うのです。あるいは、「日常」と「非(反)日常」といっても良いでしょう。一言で言えば、「超テレビ的テレビジョン」、それが宮田さんの世界だったのです。HDTV(ハイビジョン)が、宮田さんにとって魅力的だった理由もそこにあったのです。
1990年、HDTV作品「陰翳礼賛」を制作している緑山のスタジオに行ったとき、スタジオではスタッフが右往左往で作業をしていました。
「宮田さんは?」
「ソト」
「ソトって外?」
スタジオ前の化粧室で宮田さんはTシャツを洗っていました。
「どうしたの」
「チョッと走ってきた」
「・・・!」
多分、宮田さんは自分の中の絢爛たるイメージが、スタジオで映像化されたとたんに十分の一か百分の一になってしまう、その落差が辛かったのではないでしょうか。「芸術家の食卓」の本番の時も、スタジオの隅で蹲っていたことがありました。では、宮田さんが描いたイメージはどれほどめくるめくものであったのか、それは宮田さんにしかわからないのです。
そういえば、モントルー(スイス)の国際エレクトロニック・シネマ・フェスティバル(HDTV作品の国際コンクール)の審査上映中も、宮田さんはレマン湖の辺を走っていました。走ることは、宮田さんにとって健康のためではなく、肉体の美学のためであり、また自己の世界に没入するためだったのでしょう。モントルーで賞を逃した時の落胆は、この人はこんなに落ち込むこともあるのか、というほど素直なものでした。そして、翌年「陰翳礼賛」でグランプリを受賞するのです。
私たちは、宮田さんのHDTVを通して「ハイビジョンの表現力」を認識することが出来ました。HDTV制作においては、映像、照明、美術、音響、そのどれもがテレビを超えるものであり、テレビ制作者の表現力を格段に向上させるツールであることを知りました。そのとき、宮田さんという人は本当にテレビの器に納まらない人なんだ、と思ったものでした。ハイビジョンと名づけられたHDTVは、2004年の現在早くも普通の映像手段になろうとしていますが、もちろんそれはハイビジョンの問題ではなく、制作者の想像力とメディアの社会的存在との関係の問題です。そう考えると、HDTV創世記の冒険を宮田さんとともに経験できたことが、私の何よりの喜びです。
宮田さんの告別式に、国際エレクトロニック・シネマ・フェスティバルのノミネーション委員だった南カリフォルニア大学(USC)映画テレビ学部長のエリザベス・デイリーさんから追悼のメッセージが届きました。デイリーさんは「芸術家の食卓」の審査上映が終わった時、審査会場の一隅のコーヒーコーナーで「あの作品は素晴らしい」と最初に語ってくれた人でした。まさにそのとき、宮田さんはレマン湖の辺を走っていた時のことです。デイリーさんは翌年の「陰翳礼賛」も高く評価し、その受賞のために力を尽くして頂きました。
「世界は類い稀な才能を失いました。数週間前のこと、わたしはハリウッドのクリエイターに“この人、宮田吉雄の作品を観ずに、映像のことを語るな”といったばかりでした。宮田監督は、海を越え、原語を越えて文化を表現できる驚嘆すべき才能の持ち主でした。
その恩恵を受けることの出来た私たちは本当に幸運であり、その恩恵に少しでも報いるために、私たちは作品を作りつづけなければなりません。」
ジョージ・ルーカスをはじめ、数多くの映画監督が卒業したUSC映画テレビ学部には、TBSが研究作品として贈呈した「芸術家の食卓」と「陰翳礼賛」が、ライブラリーに保存されています。ハリウッドを目指す若者達は、宮田作品、宮田ワールドに接することが出来るのです。
私と宮田さんとの付き合いはそれほど数多いものではありません。もちろん雑談のような会話はあったし、いうならばお互い気になる存在だったのだと思います。そんなあるとき、何の予告もなく宮田さんが現れて「前川ちゃん、オレHDやりたいんだけどサァ」といったのです。私はその頃、先駆的?にというか、闇雲にHDTV開発に取り組み悪戦苦闘してたのです。「良くぞ言ってくれた」と宮田さんの一言に感動したものでした。それは突然の、思えばたった一瞬といってもいい遭遇でした。そして、流星のように宮田さんは私たちの前を走り抜け、私たちを粉砕し、宇宙の彼方に飛んでいってしまいました。
宮田さんはあの世で、菩薩も天使も悪魔も餓鬼も、みんな仲間にして次の作品に思いを凝らし、三途の川の向こう岸を走っているのかもしれません。
宮田さんに「芸術家の食卓」と「陰翳礼賛」の演出の場を用意出来たことが、私のテレビ現場の最後の仕事になったことを少しだけ誇らしく思い、もう二度とそういうことのない現実を思いつつ、今夜は酒を呑むことにしましょう。肴には、「芸術家の食卓」のエンディングに紹介される、鰹節の削り残った一片を醤油と味醂に漬けたのがあると良いのだけれど・・・。
|