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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No12.「 制作者の自由な精神 」 2004.11.5

“『地の底への精霊歌』で、地底で死んでいった工夫たちの現場を再現しようと思いたったときの私の感情を思い出してみると、倫理的に許されるからやるとか、方法として許されるからやるとか、誰にも迷惑がかからないからやるとか、そうした消極的判断からもっとも遠いところで自らの衝動にしたがって判断したのでした。・・・伝えたいことがあれば、そのために考えられるありとあらゆる最善の方法を考える、というのが作り手の原点です。ただそれだけが、作り手の原点と想い定めること。”
“・・・作り手が未知なるものへ挑戦していくとき、何をやっていいか、何をやってはいけないかの判断をするのに必要なものは、いかに自由な精神の持ち主でいられるかということである・・・”“肝心なことは、世界と向き合うこと、です。”

今野勉「テレビの嘘を見破る」(2004.新潮新書)


“僕にとって、写真とは一枚の美しい芸術作品を作るためのものではなくて、撮ってもっても撮りきれずに追いきれない膨大な世界の断片と、抜きさしならない自己の生とのかかわりのなかに、真のリアリティーを見つけるための、唯一の手段としてあるのだといえる。”
“人間がそして僕自身が不自由に生きるなかで、いつも自由を求めているように、写真を撮ることに関しても、全き自由を持ちたいと願うのである。”

大森大道「主観的スナップ」(1970.「朝日カメラ教室」
/飯沢耕太郎「写真と言葉」2004.集英社新書所収)


“自らの意識を乗り越えた、と言うことは、世界に関して確立していた意識を、ただ単に展開、展示してゆくことでは、決して無く、世界そのものの持つ力を、自ら率先して引き受けて行くことが、他ならぬ写真家で在る私の基本点なのだ。”
中平卓馬「撮影行為の自己変革に関して」(1986.「季刊文藝」
/飯沢耕太郎「写真と言葉」2004.集英社新書所収)


 最近読んだ二冊の本の三つの言葉。
 世界と向き合うこと、自由な精神を持ちつづけること、それが表現者(制作者)であるための条件だと今野さんも大森さんも語っています。中平さんは、急性アルコール中毒で記憶の大半を失いながら、それでも写真家としての生き方を捨てませんでした。中平さんの言葉には、確かに不自由さが残っていますが、そこには読む人をたじろがせるものがあります。
こうして、表現者(制作者)は、伝えたい何かを、あるいはやむにやまれず伝えなければならない何かを、メッセージとして形にするのです。

 では、テレビや写真を見る人たちはどういう関係にあるのでしょうか。
 今野さんは、ここでメディアリテラシーの大切さを語ります。
 膨大な映像情報が流通している現在、それをどう受け止めるかは受け止める側の問題でもあります。作品は制作者と視聴者の想像力で成立するのです。あるいは、それは世界と自分の関係性を問うこととも言えます。エンコードとデコードの関係と捉えることも出来るでしょう。もちろん、「世界」はヴァラエティーやワイドショーにも存在します。優れたエンタテナーはきちんと"世界"と向き合って、そのことを視聴者に提示しているのです。
 制作者と視聴者の関係、商品と作品の関係、市場経済における表現の問題は、この多重構造の緊張感をどれだけ持続できるかにかかっているのだと思います。そこに予定調和的関係はありません。ただし、ボールを持っているのは先ず制作者であること、このことは確かなことでしょう。そして、どういうボールを投げるのかから全ては始まるのです。そこに制作者の自由と責任があるのだと思います。制作者が自由な精神に基づいた最善の方法こそプロのスキルというものだと思うのです。



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