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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No13.「マスメディアの信用とブランド/慶応藤沢に行って来た」 2004.11.20

 慶応大学藤沢キャンパスはIT社会(最近、行政関係の用語はICTというようになったが、そもそもはInformation & Communication Technology なのだから漸く本来の略語を使うようになったということだろうが、それにしても横文字が多過ぎるというべきか、それとも日本語の融通無碍な柔構造に感心するべきか。確かに、漢字・平仮名・カタカナの三つの表記を使いこなすというのは外来文化の受け入れに適しているのだろう。・・・というようなことはともかく)の到来を想定して先見的に設けられたキャンパスである(ウーン、キャンパスか・・・)。余談だが、漢字社会の中国では、デジタルは数字式、アナログは模倣式と表記する 。コンピュータを電脳というのは、電子計算機(これも死語となりつつある)と書いた日本語より造語として優れていると思う。とはいえ、その中国でもマクドナルドやケンタッキーは流石に発音にあわせた当て字を使っているのだが。
 さて、その藤沢キャンパスに行ったのは、前にも書いたが村井純さんとの縁であり、国領二郎さんの授業にゲスト講師として招かれたのだった。講座は「ネットワーク社会論」。総合政策学部と情報環境学部、それに大学の政策・メディア研究課が対象だった。1時間15分で<地上波のデジタル化と政策課題><情報通信審議会・中間答申と放送><ネットワーク時代のテレビジョン> という三部構成で話をしたので、自ずから駆け足となり些か雑駁になったのは、分かっていたこととはいえ少し残念だった。しかし、今僕が話をするなら、それしかないのだから仕方がない。話の中身はいずれ字にする機会もあるだろうから、今日は省略。「学生達から、これからの研究にヒントになった」という感想があったというから、とりあえずそれで良しとしよう。
 ところで、この講座では事前に参考テキストを読ませてレポート提出をさせるので、適当なもの(30ページ程度)を指定し、設問を考えて欲しいといわれた。そこで、水越伸さんの「デジタル・メディア社会」の第5章[デジタル・メディアと公共圏]をテキストに選び、「デジタル・メディア社会におけるマスメディアの機能と役割について意見を述べなさい」としておいた。レポートは400字で「短いほうがパンチのあるものがでてくる」とは、国領さんの言葉である。
  講義の後でレポート集のコピーを頂いた。短いとはいえ、50人あまりのものを読むのはチョッと疲れたが、これはこれで面白かった。僕達?が学生のころより良く勉強しているな、というのが正直な感想だった。学部の性質と今の時代を考えればマスメディアへの評価が低いだろうと予想していたし、確かにその通りの意見もあり、ネットワークへの関わりは間違いなく進行していると実感した。その反面、テキストに対する意見ということもあるのだろうが (水越さんは<ソシオ・メディア論>という立場で論を展開している) 、マスメディアとネットワークの関係性を捉えるために「信用」「ブランド」という言葉を使っている例があった。ここは、レポートの評価をする場でもなければ、そのつもりもない。ただ、こういうレポート読みながら、「信用」とか「ブランド」は如何に形成されるのだろうかと改めて思ったのだった。これは結構大事な話である。

 メディアにおける「信用」は、実績=<正確さと速さ>から生まれるというのは常識になっている。それに加えて、マスメディアは「より多くの人からの信用」がなければ社会的に認知されないだろう。となると「分かり易さ」がこれに加わる。もう一つは「優しさ」とか「温かさ」、つまり「語りかけ」の要素であろう。そして、どういう視点から語っているのか、別の言葉でいえば距離のとり方である。権力・視聴者・広告主などとの「距離感」である。その上で、「何を伝えたいか=メッセージ性」がこめられていること。
  情報は日々生起し漂っている(気体)。これを収集し形にすることで番組(コンテンツ)が作られる。流動的な形は生番組(液体)、固定的な形はパッケージ(固体)ということだ。そのプロセスとして取材・編集・コメント、そして総体として(広い意味で)の演出があり、それがキャスターに体現される。報道の客観性は無意思ではなく、何を伝えたいかという意思により形成される。そう考えると、制作者(ニュースであれエンタテイメントであれ)とテレビとの関係そのものの構築の仕方が「信用」の基盤であり、如何にして「信用」を得るかというステーションの積極的な表明とその集積が「ブランド」ということになるといえるだろう。それが経営理念であり、編成方針というものだ。
 メディアリテラシーということが漸く多くの場で語られ始めているが、制作者側のリテラシーはこのあたりから考えてみる必要があるのではないだろうか。リテラシーの重要性を指摘するレポートも数多くあったが、ほとんどが一般的な重要性について語るにとどまり、メディアリテラシーについて明確な論理や具体的な提言に踏み込んだものは見られなかった。メディアに職業として関わる側からこそ、リテラシーを考えなければなるまい。その意味で、まさにモラルよりもスキルであり、ここでも「行為としてのテレビジョン」という視点が必要なのである。



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