TBS-MRI TBSメディア総合研究所
home
メディア・ノート
    Maekawa Memo
No14.「情報政策の展開とメディア論…続・慶応藤沢へ行って来た」 2004.12.5

 コンテンツとは情報を「形」にしたものだ。
  「テレビジョンは液体である」とは、以前に紹介した和田勉さんの言葉だが、テレビジョンが液体だとすれば、気体は何かというと、情報という概念がこれに当てはまる。情報は日々生起し、浮遊し、消えていく。その情報という気体を、テレビは緩やかにあるいはカッチリとした形にする。緩やかな形とは生番組で、中継のような純粋「生」と放送は生だが素材はビデオというセミ「生」とがある。完全収録番組、パッケージ番組は固体といえるだろう。それらがテレビにおけるコンテンツであり、そのように様々な「形」にされた情報の組み合わせが編成というものだ。その全体が 、時間軸に添って機能するテレビという液体型メディアを構成する。メディアがハードでコンテンツがソフトというふうに簡単に整理できないのがテレビというメディアだ。なにしろ、記録より伝送が先行したはじめてのメディアなのだから・・・という話を慶応でした。
  どうしてこういう話をしたかというと、2002年にe-Japan戦略を巡ってレイヤー化論争というのが起こったのだが、それが不毛の論争だったということに触れたからだ。IT戦略本部の中から「放送もインフラ・プラットフォーム・コンテンツの三層に分離するべきだ」という提起があり、放送事業者は「ハード・ソフト一致こそ、放送というものだ」と反論したのだった。提起の仕方も乱暴で、放送概念や産業構造の解体が目的であると受け取られるようものだったが、放送側の主張も「ハード・ソフト一致とは何か」について本質的論理展開は不在だった。因みに「ハード・ソフト一致」とは、送信権(免許)所有者が、編成権を担保されることだと、僕は考えている。
  結局この論争は、宙吊りのまま放置されることになった。現在、e-Japan pn戦略は「インフラからサービスへ」という第2段階 に入り、その柱の一つがコンテンツ振興だとされている。だが、レイヤー化論争の総括をきちんとしておかないと、再び不毛の論争に陥る危険性はあるだろう。レイヤー化論争が不毛だったのは、メディアの社会的機能という視点が欠落していたからだと、僕は思っている。例えば、メディアの三大変革とは、グーテンベルクの印刷機、テレビジョン、インターネットだとしておこう。グーテンベルクの印刷機は、ベネディクト・アンダーソンによれば、人々の意識の均一化をもたらすことによって「幻想の共同体」としての近代国家の形成に大きな影響を与えた。テレビジョンはその「持続性」と「越境性」においてメディア世界の中で圧倒的な地位を構築した。そして、いまインターネットはサイバー空間の形成という、人々にとって未知の場を創出しつつある。前二者は、国家と対峙しあるいは折り合いをつけつつ、現在に至っている。それでは、インターネットはどのようなポジションを占めるのだろうか。 水越伸さんがいう「インターネットのマスメディア化現象」に注目したい。
  些か短絡的にメディアの社会的機能についての感想を述べたのは、メディア政策が性急な技術産業論に偏って展開されることで、メディアにとっての本質的な論点が 不問のまま推移することを 懸念するからである。だからこそ、「コンテンツが重要」というテーマに対して、「コンテンツとは何か」という切り口の一つを提出してみたのだった。
  もちろん、政策はディア論的論点を排除することで成立する。政策とはそういうものなのだ。しかし、メディアは排除された論点を執拗に提起し続けることで、メディアに関する政策(情報政策)との間で緊張関係を作り上げなければならない。これは、メディア側からのみ可能な関係なのであり、それを問いつづけることで、さらに高次な情報政策を引き出すことができるのだ。これをノートとして書いてみたのが別図(クリックで図にリンク)である。
  この政策とメディア論の関係を意識できたことは、今回の経験で一番刺戟的なことだった。慶応藤沢に多謝。



TBS Media Research Institute Inc.