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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No19.「『物語』の可能性」 2005.2.15

 「…『データ』の時代というのは、実は『物語』が死に瀕している時代なのかもしれません。『物語』はかなり複雑な情報を扱うことが出来ます。『物語』の厚みの違いによって、あるいは読み手の『読み込み』の深さに応じて、そこから汲み出すことが出来る情報の量も質も大きく変化するのです。…一方、『データ』には厚みも深さもありません。そんなものあっては困ります。誰がどういう風に読んでもいつでも同じ情報を伝えること、それが『データ』の条件ですから。…『物語』から『データ』へ情報媒体が移行しつつあること、これがぼくたちの時代のもつとも深刻な病徴なのかもしれません。」(内田樹・平川克美「東京ファイティングキッズ」柏書房)

 1950年生まれの同級生の、一人は大学教授もう一人はベンチャービジネス経営者のこの往復メール書簡集は面白かった。言葉のパンチの切れと発想のフットワークの良さで現代のキーワードを捉えて行く展開はなかなかなものだ。重たい話をサラッと裁く手際は気持ちが良い。二人とも「そろそろ初老」などと言いつつキッズぶりをいかんになく発揮している。
 そうなんだ。「物語」の復権は、かなり大事なテーマなのである。
 「物語」には、言葉とそれを語る身体が必要だ。例えば、「むかしむかし、あるところに、おじいさん(おばあさん)がいました・・・」と聞いただけで、どういう情景を思い浮かべるか、語り手と聞き手の想像力が交錯する。そこに数値化不能の空間が漂い始める。物語は昔話とは限らない、当たり前だ。コミュニケーションは個人の物語の交換であり、歴史は物語の集積である。
 つまり、認識と表現の誤差の中に「物語」が生成するのではなかろうか。「データ」は誤差を認めない。そこには、言葉と身体のズレから生まれる想像力の存在理由が喪失している。もちろん、「データ」の読み方により評価や判断が違うとい事はあるだろう。しかし、データが精緻化されれば、その差が極小化されるというのが「科学的認識」の前提であると考えられる。「物語的認識」は違う。語られる、あるいは語り合う中で、さまざまな要素が付加(あるいは修正)されていき、「物語」は多様に成長する。
 「物語」にひとつの解釈の強制意思を持つのが国家であり、その過程が政治である。テレビジョンは多様な「物語」を掬い取ることが可能なメディアであると思う。それは、テレビのような寄せ鍋型媒体の特性である。だが同時に、「情報の共有化」というマスメディアの社会的機能は、「物語」の単一化に最適でもある。「歴史を再編することなくあるがままに提示する」というテレビのありうべき機能と、「物語」の単一化機能との共通構造化という点で、メディアと権力の関係は多層的である。
 というようなことを言っている間に、ライブドアによるLF(ニッポン放送)の株式支配がニュースになっている。CX(フジテレビ)のカウンターが始まったところで週が開ける。岡目八目風にいえば、「データ」型ベンチャービジネスによってメディア業界に新たな「物語」が始められた、というところだろうか。もちろん、他人事ではないのだが、「マスコミは投機の対象外とするよう規制すべし」と単純に言える話ではない。通信(インターネット)と放送(ブロードキャスト)は、インフラや端末のレベルを超えて資本のレベルにおいて融合が始まったといえるだろう。ではそのとき、マスメディアの存在理由とは何か。メディアと権力との多層的構造はどうなるのか、そしてNHKとは何か。デジタル化という「データ」型媒体への基礎構造の変化を取り巻いて、想定される変化を超えて状況は激しく、かつ深層から動き始めているようだ。テレビの内部にいる者が、自らの言葉と身体で自らの「物語」を語ることを求められる時代なのだと思う。



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