
No20.「ライブドアの波紋…「放送聖域説」の論点」 |
2005.3.1 |
ライブドアがLF(ニッポン放送)の株を大量買付け公表した際の記者会見資料を見た。その中に「放送は通信の一部」と書いてある。インターネットと放送の提携によるシナジー効果を期待するライブドアとしては、当たり前のことを書いたということだろう。LFを挟んでライブドアとCX(フジテレビ)の攻防がどういう結果になるか、ことは裁判問題に発展し、今のところ(2月末段階)は混沌としたままである。ここに至るまでの放送関係者の反応は「やっぱり時代はこまで来たか」「他人事とはいえない」といった認識はあるものの、総じて「こういうことはあって欲しくなかった」というのが本当のところだろう。そこにこの「放送は通信の一部」という言葉が登場すると、相当ムッとしているだろう。
だが、これは「放送とは何か」を考えるためには格好のテーマである。
「放送・通信融合」論に終始受身だった放送には、いわば「放送聖域説」があり、それは公共性とよばれる社会的機能をよりどころとしている。そこには通信事業とは産業規模の違いによる「融合=統合」という警戒心も働いている。また、インターネットの登場に顕著見られるように、通信はデファクト型(市場主義)、放送はジュール型(規格主義)といった技術の社会化に関する相違もある。いずれにせよ、融合論者に対して「放送のことが解っていない」と放送側は常にブツブツと言ってきたのである。
さて、放送は放送法で「公衆が直接受信することを目的とした無線による送信」とされ、その免許は「無線局免許」である。放送法そのものが「電波法」を前提にしたものなのだ。つまり、確かに放送は通信の一形態であるといえる。しかしそれにも拘わらず「放送法」が独自に存在している理由は何か。
放送=[1対n]と通信=[1対1]という古典的区分がある。しかし、放送にも[1対p(有料放送=特定多数)]が登場し、今また限定受信技術(CAS)の実用化が進められている。一方、インターネットは[(1対1)×n=(特定情報への不特定者のアクセス=マスメディア型サービス)]がビジネスの主流になりつつある。インターネット広告費がラジオ広告費を抜いたということが、このことを如実に示している。「放送は通信の一部」かどうかは別にして、古典的区分けでは整理しきれない状況は確かに広がりつつある。それでも[1対n]が存在し続けると考える(と、私も思うのだが)、その根拠はなんだろう。
ところで、もう一つ放送と通信の相違を言うならば「伝送する情報に関して自ら責任を有する(伝送主体=情報主体)」のが放送で、「他人の情報を伝送する=情報内容に関知してはならない」のが通信ということになる。前者の原理が[表現の自由]で後者は[通信の秘匿]。だが、もし後者の原理が完全に保障されるならば、その限りにおいて通信手段による放送型サービスは成立することになる。「あまねく普及(誰もが必要な情報の共有化)」を如何に担保するかということや、伝送における経済合理性という問題はあるものの、何故放送事業者が無線局免許人でなければならないのだろうか。
国によって放送制度が異なるのは、その国の放送成立に至る歴史的社会的条件の相違によるものであろう。NHKが先行した日本では、無線局免許が放送事業者の存在要件とされているが、技術的・産業的に放送周辺の環境が流動化しつつあるなかで、現行放送法制が継続されるとしても、その現在的合理性の検証は欠かせない。
また、規制緩和による競争原理の導入が急速に進んだ通信分野では、周波数は経済財としての価値が優先しているが、放送では公共財としての側面が重んじられている、と考えられている。通信にもユニバーサルI??ぢサービスという概念があるが、NTTの民営化以後、不採算地域の通信インフラは自治体などによる整備が大きな役割を果たしているという。しかし、例えば、誰もが携帯端末を利用できることは情報格差是正という観点から「公共性の高い周波数利用」だといえようが、通信事業者はこれを経済活動により実現しようとしている。放送における「あまねく」(難視聴=条件不利地域への放送サービスの担保)の根拠は一体何なのか。情報通信審議会が中間答申として、地上放送のデジタル放送移行のためには「条件不利地域」について自治体等の所有する通信インフラの利用を提言している意味を問うべきだ。情報格差是正(デジタルデバイド解消)は、誰も否定し得ない原則だろうが、それは同時にナジョナルな意識空間の構成条件でもある。いずれにせよ、経済活動による公共性の形成と制度による公共性の担保との関係はどう考えるべきだろう。
などと考えているうちに、政府や政財界から既存事業者にフォローウィンドウが吹いてきた。時間外取引による株の大量買付けに対する疑問や放送局を企業買収の対象にすることへの規制論である。前者については、規制論(グレーゾーン説=違法ではないが制度の趣旨に反するので脱法に近い)には「後出しジャンケン」のような印象があるが、門外漢なので率直なところよく分からない。後者については、外資規制という点には合理性が成立すると思うが、全体的な制度的保護ということになると、情報産業が流動化する状況の中で単純な「放送聖域説」だけで良いのだろうか。シナジー効果を目指すのはどちらからアプローチするかは別にして、これまた当然の選択である。放送の公共性は周波数監理を根拠とするだけでなく、「より多くの人に情報提供する」という放送局の経営原則によって維持されるべきであり、これはデジタル時代においても放送の基本テーマであろう。
こうした動向の全体を通して見えてくるのは、放送業界自身が今回のような経済行為でディスターブされるのを排除したいと思うのは「企業(グループ)防衛」という点で当然であろうが、市場競争というグローバルスタンダード優先の現代において、こと放送については国家という立場からも規制の力学が働きつつあることだ。ライブドアは、放送が政治にとってどういう存在か、という論点まで浮かび上がらせてしまった。「伝送する情報に関して自ら責任を有する(伝送主体=情報主体)」のが放送であり、その原理は「表現の自由」といったが、放送の自立は高度に複雑な関係の中で語られなければならない。
こう考えると、ライブドアが「放送は通信の一部」といった意味は、彼らの思惑を超えてさまざまな論点が含まれていることが分かる。これは、ライブドアの挑戦による「功績」?である。私たちは論理的にも状況的にも容易ならざるアポリアを前にして立ち尽くしている。立ち尽くしている場合ではないのだが…。
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