
No23.「テレビマンユニオン・断想」 |
2005.4.15 |
テレビマンユニオンが2月に35周年を迎えたという。このことについて、もっと早く書かなければと思っていたのだが、時々の思いが先行して今回になってしまった。
テレビマンユニオンはテレビ局出身者によって設立された最初のプロダクションである。設立以来、局と制作会社の関係を常に問い続け、そのことでテレビジョンが「テレビ局」を超えるジャンルであることを示したこと、つまり組織(経営)論から文化論に至る幅で「行為としてのテレビジョン」を持続してきたことの意味は大きい。その問いに局はどう応えてきたか、あるいは応えてこなかったか、そしてテレビマンユニオン自身がどう応えるだろうかは、デジタル化やライブドア現象の中であらためて試されるであろう。
1969年(もう70年に入っていたかもしれない)の冬、村木良彦さんから制作プロダクションを立ち上げる話を聞いた。赤坂のどこかの飲み屋のカウンターだった。もちろん「参加しませんか」というメッセージではあったが、村木さんは「それはあなたの自由です」という言い方で表現したことを覚えている。
昂揚の後の虚脱、と言うとカッコ良すぎる。1968年のTBS闘争の後、慣性の法則によって前のめりになる心情と、行き所を失った空白の間で、今思えば僕はただ空回りしていたのだった。それは、全共闘運動の終焉に象徴されていたように、時代そのものが転換期の後半に差し掛かっていたせいだろう。その頃、村木さんとはよく新宿ゴールデン街で遅くまで酒を飲んでいた。といって村木さんはもちろん、僕も饒舌だったわけではない。傾斜する状況を、寡黙に酒を飲みながら確かめていたのだと思う。そして、テレビマンユニオンが設立される。こうして僕の60年代は過ぎていった。
結局、僕はテレビマンユニオンに参加しなかった。誰かに引き止められたのでもなく、局に留まることに何か期待があったわけでもない。「ヨシ!やってみよう」という気持ちにどうしてもならなかったし、「面白そうだから」というノリの気分にもなれなかつた。自分が上手くはまるだろう場所が見えない曖昧さ。いや、もっと分かりやすく言えば、度胸の問題だったのだろう。そのときの判断について、その後何度か思い返したことがある。率直に言えば、テレビ制作者として勝負しようというほど、僕はテレビが好きでなかったのだ、そう思う。理屈で言えば、テレビがどうなって行くのかを局の中で見続けることを選択したのだった。「そういう人がいることも大事です」というのが、この件についての村木さんとの会話の最後だったように思う。それ以後35年、僕は局の中でテレビがどうなるかをチャンと見続けただろうか。
今、僕はテレビというメディアが好きだ。というより、テレビについて考えることが、僕がここにいる理由だと思っている。テレビの現状は編成も経営もかなりの危機的状況にあると思うけれど、デジタル化、ネット社会の成長、ライブドア現象、NHK問題・・・、こういう状況変化の中でテレビというメディアの存在理由と可能性について考え続けることは、やはり大事なことだ。そう思うようになった最初の事件がTBS闘争であり、村木さんとの出会いであり、「お前はただの現在に過ぎない」(1968.田畑書店)という一冊の本だった。僕のテレビとの関わりは、その時から始まった。だから、テレビマンユニオンは僕にとってずっと気になる存在だったのだ。
と、ここまで書いた時に「テレビマンユニオン35年史」が届いた。なんというタイミングだ。パラパラと捲れば35年前の光景が目に浮かぶ。週末に家でゆっくりと紐解いてみよう。そして、この続きをどう書くかページを繰りながら考えてみよう。
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