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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No27.[「融合と規制緩和」を巡って] 2005.6.15

 このページをはじめてから、というよりメディア総研ホームページ開設以来、始めて更新指定日の朝にアップできなかった。半日遅れの立ち上げになり申し訳ない。

  さて、通信・放送融合状況の進展にともない、再び(といってよいだろう)「規制改革」の方向が検討されようとしている。今回の規制改革の焦点はコンテンツ問題にあるが、それを詰めていけば当然既存業界に競争原理が働いているか、というところに議論は発展するだろう。取りあえず、現時点の感想をメモにしておこう。今の段階でも、もっと踏み込んだことを書くことも可能だが、全体状況を具体的に把握しておかないと思わぬ思い違いになることもある。デリケートな問題だけに、ここは一つ慎重にしておこう。


通信と放送の融合に対応した競争環境の整備
【問題意識】
  通信衛星(CS)を利用した放送や有線テレビジョン放送施設を利用した通信等に見られるとおり、インフラ面においては「通信と放送の融合」が既に現実のものとなっている。これらに加え、近年は、インターネットが急速に発展するとともにブロードバンド化(ADSL、光ファイバー)が進み、通信インフラを通じて大容量のコンテンツが流通するようになっている。このような中、利用者にとっては当該コンテンツが通信であるのか、放送であるのかといった区分は意味をなさなくなっている。

【検討の方向性・具体的施策】
 地上放送のデジタル化を踏まえつつ、通信と放送の融合が進む中、国民が魅力あるコンテンツをいつでも、どこでも自ら望む手段で享受することができるよう、既存の業態や制度等にとらわれることなく、規制の見直し等を行う。


これは、今年度の第2回規制改革・民間開放会議(以下、「会議」)で6月13日に「重要検討課題」として決定されたものである。今後これを基に7月末の中間取りまとめに向かって論議が進められるという。この短い要旨だけでは1ヶ月後に何が示されるのか判然としない。これは、もちろん公表されたものであるが、非公表の議論検討もあったであろう。その意味で、この文章構造から何が読み取れるのかの精査も必要だ。その上で、「放送事業者としての対応は」と聞かれれば、「目下、考え中」ということになる。

さて、このMaekawa Memo 21.(新・調査情報no.53.掲載)では、以下のように書いた。
「私たちにとって何よりも必要なことは、デジタル技術の進歩によって多様に変化する情報環境の中で、テレビというメディアの機能をもう一度とらえ返すことなのだ。
 デジタル化が技術論・制度論・政策論・経営論として語られることはあっても、こうしたメディア論的発想で語られることは稀である。もちろん、メディア論が政策を決定するわけではない。しかし、メディア論から政策を撃つことは出来るはずだ。
 いま私たちにとって必要なのは、合理的な政策形成の過程にコミットするとともに、政策論から排除される、ないしは排除されざるをえないメディア論的な発想によるテレビジョンについての論理を構築することである。それをもって政策と対峙し、そこに生ずるメディアと政策の緊張関係により、さらに高度な政策を要請することだ。」

この「重点検討課題」を読みながら、あらためてそう思う。
しかし、「合理的政策過程にコミットする」場が、この「会議」については見えにくい(例えば、「既存の業態や制度等にとらわれることなく」というのは、検討課題だけでなく検討方法も示唆していると読み取れる)ため、「何を」「どういう方法で」「何時」発言するかは、容易ではない。この文章から何を読み取るのかの精査が必要というのは、そういう意味である。
  一つの例として、「利用者にとっては当該コンテンツが通信であるのか、放送であるのかといった区分は意味をなさなくなっている」というが、確かにコンテンツを小包のように考えれば、その限りにおいて、それがヤマトか佐川かペリカンか、はたまた郵政公社から届くかということには意味がない。しかし、「だから放送と通信の区別に意味がない」ということに直結するとすれれば、それは論理の飛躍(というより短絡)であろう。そもそもコンテンツを小包とか缶詰のように理解すると、メディアという存在が見えなくなる、と私は思う。これが「政策論から排除されるメディア論から政策を撃つ」視点ということなのだ。
  あるいは、「魅力あるコンテンツ」という言い方は当たり前のなんでもない言葉に思えるが、流通するコンテンツを「魅力ある」と思うかどうかは、ユーザーの判断である。一般的には、「多様なコンテンツを国民が選択できるよう」とすれば足りるのに、ここで「魅力ある」という修飾語が付されているのは何故だろうと考えて見よう(その読み解き方は、また別途)。

  さて、この文章には3ヶ所「等」が登場する。通常、私たちが「等」とつける場合は、何かを特定してしまうほど断定する自信がないため、よく分からないが糊代をつけておく(他にも何かありそうだ)程度で使用することが多い。しかし、行政の作る資料では、「等」はしばしば具体的な事例を想定しているが、明示することを避けることが得策だと思われるときに使用されていることが多い。そうだとすると、これらの「等」は何が想定されているのだろう、推測すればコンテンツ流通の最大課題である著作権問題などもこの「等」に含まれているのだろうか。・・・などなど!
  他にも実に多くの論点が潜んでいるのである。それらについてはまたいずれ。深読みが過ぎるかもしれないが、非公表部分の議論検討があることを想定すれば、まとめられたものの解読には、書かれていない部分の読み取りも含めて、それなりの想像力が必要なのだ。

  ところで、「融合」とは何かを考えるために、次の文章を引用しておこう。
 「・・・近未来ネット社会において、インターネット・システムがマスメディア・システムに置き換わるわけではない。マスメディアはネット社会でも相変わらず存続するであろう。これは、経済的・文化的グローバリゼーションが進展しても国家が存続することと同様である。・・・ただ、大切なのは、近未来ネット社会においては、マスメディア・システムの影響力が、それが唯一のメタ社会システムであった場合に比較すると、少なくとも斉一性や絶対性を失っていく、という点なのである。」「・・・マスメディア・システムが唯一のメタ社会システムである近代的産業社会に比べ、二一世紀ネット社会ではインターネット・システムもメタ社会システムに加わるとすれば、両者の相互観察/相互理解が期待できるであろう。」(西垣通「基礎情報学」/NTT出版)

  コンピュータやIT社会について広く考察してきた西垣さんが、生命体情報から説き明かしてきた情報論の最後に登場するのがこの部分である。それこそ、これをどう読み解くかというあたりから、少なくとも私たちは真面目に考えるべきなのだ。



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