
No28.「放送事業者こそ、本質的問題提起者…今年の夏は暑そうだ」 |
2005.7.1 |
TBSメディア総研も株主総会が終わり、新しい体制(といっても大変化はないのだが、気分だけでもそうありたい)でメディア状況に向き合いたいと考えている。このMedia Noteも2年目に入る。
さて、それが仕事といえばそれまでだが、このところ情報通信審議会、民放連、地上デジタル放送推進協議会、それに前回触れた規制改革・民間開放会議、などなどにおける議論あるいはその対応に関わっていて感じるのは、情報分野で同時進行中の様々な事象と、それらを「形式(制度、市場、文化的エネルギー、など)」として具体化しようとするときの様々な力学の複雑さである。
世紀という時代の区切り方にどういう意味があるのかはともかく、いま世紀の変わり目を境に起こりつつあることは、やはり「革命的」というべきなのだろう。そう考えると、「地上放送のデジタル化」というのは、しばしば「最大普及メディアの方式変換という難事業」などと言ってみるものの、実はそういう話ではなく、さらにスケールの大きな構造変化だと考えた方が良い。
そのことを、上に述べた様々の会合にかかわる関係者はどれほど明瞭に意識しているかどうか、相当程度に強く関心を示している人でさえ、それぞれの立場からの目線で状況をとらえようとすれば、そこではその人の全体像への目線が特定される。官は官の、そして事業者は事業の、専門家はその専門分野の、というわけだ。それは当然のことなのだが、技術、メディア、市場、社会、国家、などを横断的か縦断的かはともかく、広く論点を摘出しその関係性を考察する中から選択肢を整理して行くという抽象度の高い作業が必要なのである。にもかかわらず、それは容易に成立しない。衆知を集めるといっても、最後は衆知を越えた構想力がもとめられるからだ。
ところが、こうした事態に最も腰が重い(と見られている)放送事業者が、実は最も本質的問題提起者の立場にいるのである。その理由は、(1)免許事業であることにより、メディア構造の変化への対応は常に国と向き合う立場におかれているため、情報政策への関与は本質的なものにならざるを得ないこと、(2)マスメディアを生業とするということは、社会のあらゆる分野と個人に関わるのであって、私企業(自産業)の利益を前提にしつつ、社会的(理念的)にはそれ超える行為を課されることで成立していること、の2点であろう。
確かに、客観的にいえばそれはそうなのだ。だが、これまでもいくつかの課題で民放事業者の利害とメディア環境の本質的変化への狭間で難渋しながら、何とか「業界の合意」を基に方針を提起してきたつもりだが、こうした二重の論理操作がどこまで有効か。些か疲れたというのも本音である。そうこうするうちに、津波のようなあるいは暴力的な力による変更、いわゆるハードランディングを強いられることもありうるのではないだろうか。
それでも、これからさらに進行するであろう様々な変化の中で、メディアの本質的あり方を問い続けることは、私たちのようにメディアの中にいる者の最大の仕事なのだと確信している。前回引用した西垣通さんの「基礎情報学」のような高度な論理構築を読み解くことから、ライブドア型M&A対策や家電店のデジタル受信機のPRまで・・・今年の夏は暑そうだ。
ところで、「基礎情報学」はとても刺戟的で面白かつた。「近代産業社会においてマスメディア・システムが形成する『現実-像』は、専門文化のために断片的にしか把握できない一般の人々に、一種の擬似統合的な社会イメージを提供してきた。」しかし「インターネットの特徴はグローバリズムとローカリズムの混合であり、したがってそこでは、従来の国民国家とは異なる単位でコミュニケーションが生成され始める。これは質的変化であり、量的変化ではない。」では、「『インターネット・システム』は、このマスメディア・システムを相対化することができるであろうか。」・・・「インターネット・コミュニケーションに一般の人々が関与するとき、そこにはマスメディア・システムと同様に『現実-像』を形成する回路が開かれて行くのである。」
ここでは、一般的に「融合」と呼ばれる現象を「相対化」という概念で語っているが、メディアの関係性という観点で言えば、「相対化」の方が的確な表現であろう。この後に、前回引用した論旨が続くことになる。
さて、ここでは一つだけ論点を提示しておこう。
「現実 - 像」(像としての示される現実、乃至は擬似的共同性)の形成は、間違いなくマスメディアのコミュニケーション機能によるものだが、一般の人々の関与によりインターネット・コミュニケーションにおいて「現実 - 像」を形成する回路が開かれるとして、それがいかにして「現実 - 像」の結実に至るのだろうかという点である。それが可能になるためには、開かれたインターネット・コミュニケーションの回路の内部に、近代国家=「幻想の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)に代わる「グローバル/ローカル」を内包したイメージの力学が働かなくてはならず、そこには何らかの政治的モメントと連携した情報編集機能が必要なのではなかろうか。裏社会型ネットワークが先行的にインターネツトを駆使し始めていることは、このことを逆説的に暗示しているように思える。
「基礎情報学」は西垣情報論の通過点であろう。更に踏み込んだ論理展開が楽しみだ。
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