
No29.「インターネットとマスメディア」 |
2005.7.15 |
ある経済学者と話していて驚いた。
「近い将来、人はインターネットから全ての情報を得るようになるから、放送は不要になる」。これは、テレビのデジタル化の議論が始まった頃、もう10年くらい前の議論だ。その後、様々なレベルの議論検討を経て、さすがにこの手のインターネット万能論はなくなったと思っていたが、こういう話を聞くと変化の激しいIT状況で突然化石に出会ったような気がする。テレビ界は守旧派だといわれていて、確かにそういわれるだけの理由もあると思っているが、こういう会話に出会うと、こちらが進歩派になったような錯覚にとらわれる。この学者はIT政策に影響のある立場にあり、「これは私たちの共通認識です」というのだから困ったものだ。しかたがない、あらためて整理しておこう。
論点は三つ。
(1)マスコミュニケーションの意味
(2)情報編集とは何か
(3)情報伝達の経済効率と品質保証
(1)マスコミュニケーションの意味
マスコミュニケーションが活字印刷とそれにより可能になった「俗語表現」を契機として登場し、いわゆる「幻想の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)を現出させたことは、メディアを論じるときの常識的前提になっている。それは近代国家社会の成立要因であるが、ラジオそしてテレビジョンが登場したことにより、マスコミュニケーションの同時性同報性は飛躍的に拡大した。国家は周波数の有限性という理由はあるものの、(それ故にこそ)そのことを先験的に見抜いていたので、放送を免許制度として成立させたものと考えられる。その意味で、電波メディアは、常に言論表現と政治の間でスリリングな緊張を強いられている、というよりそうあるべきなのだ。政治がどのような局面を迎えようとも、マスコミュニケーションとナショナリティーは不可分の関係であると考えてよい。
一方、インターネットはそもそも国家社会という単位を前提にしていないネットワークである。学術など専門分野において成立したネットワークが相互接続することで、地域規模のあるいは共通目的のための個人的な小規模な情報交換の場として機能するとともに、国境を越えた世界規模のネットワークによる情報公開に至るまで、融通無碍といっていいほどの「自由」なコミュニケーションツールである。こうしたネットワーク社会はさらに発展するであろうが、それがマスコミュニケーションとしての機能を代替することはないと考えられる。少なくとも国家がそれを選択するのは得策とは思えない。逆に、インターネットがそれを要求するとすれば、自ら政府の規制に身を委ねることになる。それは、インターネットの存在理由の自己否定である。つまりインターネット本来のあり方は、マスコミュニケーションの存在を前提にして、あるいは「それはそれ、これはこれ」として、機能するものなのである。
(2)情報編集とは何か
インターネットは通信として登場したという点で[1対1]を基本としているが、今や[(1対1)×n]としても機能しているため、マスメディアの領域と「融合」しつつある面も確かにある。他方、マスメディアはインターネットを利用することで複合的な情報構造を構築することは、当然の選択となろう。
では、マスコミュニケーションとは、いかなる情報を提供しているのだろう。そもそもが「幻想の共同体」を形成することから始まったとすれば、専門家であれ生活人であれ当然その共同体の成員に対して共有すべき情報を提供することが基本である。この場合の共有されるべき情報は、必ずしも国家統制型の情報を意味するものではない。むしろ、国民国家成立のためには、それ以前の政治形態への異議申し立ての情報提供が原初的だったと考えてよいだろう。だからこそ言論・表現・出版の自由が(信仰の自由とともに)近代国家の憲法原理となっている。先に触れたが、免許事業である放送が身を捩るようにしてジャーナリズム機能を果たそうとしているのは、古典的にはやはりこの原理による。国民国家としての在り方の基本を民主主義というとすれば、そのシステムそのものにコミットするのがマスメディアということになる。ただし、現実にはこうした古典的な自由の原理よりも(というよりそれに基づく)「情報の信頼性」が、現在のマスメディアには問われている。アメリカの貨幣には[In God We Trust ]と刻印されているが、何を根拠にその情報を信頼するかといえば、「神」というわけにいかず、それは経験則以外にありえない。それを果たすのが、マスメディアの情報編集機能であり、そこに情報編集責任が生ずる。
インターネットには、こうした歴史も社会的位置づけもない。それがインターネットの自由というものだ。しかし、同時にインターネットは自由で刺激的なツールであるが故に、犯罪に関するものをはじめ反社会的といわれる情報が氾濫していることも事実であり、インターネットにおける情報規制が検討されようとしている。だが、近代憲法のもう一つの原理は「通信の秘密」であり、「検閲の禁止」である。したがって、通信分野における情報規制は、事後規制を基本とするべきであろう。そうだとすると、中国の反日デモの際に、中国政府がホームページの情報を禁止したことをどう考えるべきか。また、インターネット情報提供者も、情報編集機能を持ち始めていると考えられ、それが裏社会型として機能していることに逆説的意味を読み取るべきだということは前号で触れた。
このように情報の信頼と規制ということを考えると、免許事業である電波メディアの自家撞着を承知で言えば、周波数監理という無機的規制を基にした最小限の事前規制は、情報の信頼性の基礎となる情報編集機能を制度的に担保するものだということになる。そして、この情報編集機能に基づいて情報の受け手との間に「信頼関係」を構築するのは、制度による保証ではなく、マスメディアの自助努力、即ち企業としての経営行為である。
ネット社会の到来は、こうしたことを浮かび上がらせたといえる。昨今また論議の種となりつついある「ハード・ソフト分離」についていえば、まさに「免許主体が情報編集機能を担保される」ことこそが「ハード・ソフト一致」ということなのであって、放送波により全家庭に伝送するということではない。
(3)情報伝達の経済効率と品質保証
放送が同時性同報性という点で優れているのは無線送信の技術的特性によるのであるが、情報伝送の経済効率から見てもそれは明らかだ。無線送信の特性は移動体通信に適しているのだから、家庭への情報伝送は有線(光ファイバ)で良いとする考え方は確かにありうるが、より多数の(100万を目安とするという説があるが)受信者への同時送信についていえば、無線送信が圧倒的に優位である。ました、全国共通の情報を同時的に送信するとすれば、回線コストや中継局経費を考慮しても基本は無線であろう。テレビのような大容量情報を有線ネットワークで伝送しようとすれば、分配系など膨大な設備投資と工事費が発生する。地上民放にとってデジタル投資負担は小さいものではないが、放送対応の通信系インフラの設置と運用のコストはさらに巨大であろう。相当長期的に考えれば、通信放送共用インフラとして、コストの低減は可能かも知れないが、いまそれが合理的選択とは思えない。
また、IP伝送の場合、HDTVレベルの画質保証の問題や地域限定性についての技術的あるいは運用上の課題もある。無線を家庭で直接受信するという簡便性、安定性、情報内容への介在の排除性など、放送を無線で運用するメリットは大きい。但し、一定の地理的条件の地域や付加価値性の高いサービス(付加情報や多チャンネルなど)として、放送を通信インフラで供給する合理性はありうる。
さて、ここまできてインターネットと放送、特にテレビとの関係を考えると、次のようになるだろう。
- インターネットは急速に普及し、ネットワーク社会は成長過程にあるが、それがどのような成熟したメディア環境を形成するかは未だ見えていない。
- インターネットは、情報入手、情報交換のツールとして極めて有効な場を形成しつつあり、これがしばしばインターネット万能論の呼び水となっている。
- しかし、マスメディアとインターネットは生成の歴史的・社会的背景を異にするものであって、「融合現象」の進展を考察する場合も、この点を明確に踏まえる必要がある。
- インターネットは地域的あるいは国際的コミュニケーションネットワークとして機能していることが特性であり、国家単位のメディアではない。
- 一方、現代国家を社会的に成り立たせるために、マスメディア機能は不可欠なものであり、インターネットがこれを代替するとは考えられない。
- また、マスメディァは、国民レベルにおける情報共有システムとして安定性や経済合理性も高い。
- マスメディアの情報編集機能は、人々との信頼関係を保持するために必要なものであり、制度的担保と経営行為の双方で維持されるべきである。
- しかし、放送はインターネットを構造的に取り込まなければ、情報環境のなかで影響力を喪失するであろう。
- ネットワーク社会の発展は不可避であり、そこで生起しつつある情報環境を的確に把握することにより、情報流通における自由と規制の新たな関係を構築する必要がある。
私たちは、この程度の認識を常識とした上で、様々な議論に向き合わなければならない。先は未だ長いと覚悟しよう。
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