
No31.「私の8.15.…竹内好のアポリア」 |
2005.8.15 |
「竹内好という問い」(孫歌・岩波書店)を読んで感服した。竹内好(今、この人のことはどのように評価されているのだろうか)を軸に、1930年代から現在に至る日本の思想状況を、見事に鋭利に切り取って見せた人は、そうは多くはいないだろう。状況の切り取りと言うよりは、アジアにおける近代化の主体とは何か、そのテーマにどうアプローチするか、竹内好が提起した問題=アポリアの意味を読み解く手際は鮮やかである。孫歌さんは、中国社会科学院文学研究科の研究員で、かつて竹内好が教鞭をとった都立大学に籍をおいたことがあると言う。それにしても、外国人でありながらこれほどの同時代感覚で日本の現代思想史の課題を著述しうるということに、著者の非凡さが示されている。ルース・ベネディクトの「菊と刀」やジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」のような外国人による優れた日本研究はかなりあるが、それとは違う。
外圧により変形された主体が、抵抗により新たな主体性をいかに獲得するか、それが近代アジアの主体性というものだ、竹内好の問いはそういう性質のものだった。そのことを、著者はこう書く。「たとえば対外侵略のイデオロギーの中には、歴史上萌芽的に発生しながらすぐに摘み取られた東アジアへの責任問題が隠されている。また、西洋に対抗する日本ナショナリズム・イデオロギーの中には日本を世界史の一部にしようとする努力が含まれている。竹内好は問いかける。もしこうしたすべてを『正しい』理論によって消し去ってしまったら、一体思想伝統を形成し歴史責任を担うことのできる思想遺産が日本に他にあるだろうか。外来の思想と観念をいかにして日本の思想・観念へと転化させ、日本の日常生活経験に作用させるのだろうか、と」。思想史に空白はない、あってはならない、それが竹内好の認識であり、だからこそ主体として歴史に分け入ることを自らに課した、それが竹内好の遺したアポリアだ。「私たちは今日はじめて、竹内好が『火中の栗をひろ』おうとした理由を理解できるのかもしれない。そして、竹内好による日本の主体的建設の試みが抽象的なナショナリズム批判によって簡単に解消された結果がもたらされた(引用者註:「もたらした」?)マイナスの効果を、今日はじめて知ることができるのかもしれない。『国民の歴史』は竹内好が最も望まなかった方法によって彼の予言を現実化した」。
まことにそう思う。戦後史のツケを、私たちは今支払うことを迫られている。高度経済成長、冷戦構造の解体、湾岸戦争、バブル崩壊、9.11.、拉致事件、イラク戦争と連続する状況変化の中で、左翼はサヨクになり(島田雅彦)、ポストモダンが駆け抜け、青春は終焉し(三浦雅士)、半世紀の間放置したままにしてきた思想史上の課題=ナショナリティーが浮上してきたことを、困惑とともに苦い思いで受け止めてきた。孫歌さんの提示した構図は重い。60年代の混沌の中に垣間見たもの、竹内好をたどたどしく読んだことを思い起こしつつ、この国の近代化=「思想としての自立」の道は遠いのだ、とあらためて思った。そして、中国の近代化は、いま思想史上のどこにポジションを占めているのだろう。竹内好が原点とした魯迅は、現在の中国においていかなる意味を持っているのだろう。
日本と中国の間には、語られなければならない共通の課題が山ほどあるのだ。そのことを孫歌さんは「竹内好の問い」ではなく、『竹内好という問い』という表題にこめているのだと思う。
ここから先は、いささか牽強付会活短絡的であることを承知のメモである。
テレビは、「想像の共同体」としての近代国家の構成要素(共通イメージの生成装置)であり、国家は賢明にもそれを免許事業にした。一方、テレビは国民の日常的感情に依拠し、時代と添い寝をする存在でもある。そう考えると、テレビは思いのほかナショナリティーという思想史上のアポリアに近いところに身を置いている。それが、テレビジョンの危うさであり、行為としてのテレビジョンの微かな可能性でもある。このことは、今までも少しは触れたし、これからも触れることがあるだろう。さて、そうだとするとインターネットはいかなる存在か。技術の社会化の過程で、ナショナリティーとメディアの関係、先行するメディアと新たに登場しつつあるメディアの関係、情報編集責任とは何か、などなど様々な論点が成立するはずだ。それにもかかわらず、議論の焦点が合わないのは何故だろう。
一冊の本から、その主題と離れていろいろな思いが浮かぶのは読者の自由であり、幸せでもある。
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