
No32.「Post DigitalとRe-Television」 |
2005.9.1 |
潮流がぶつかるところにはプランクトンが多く発生し、多種類の魚が集まり豊富な漁場になるという。「融合」とは、そういうことだ。例えば、親潮と黒潮でも良いし、太平洋と瀬戸内海でも良いが、双方の潮が入り混じる海域に、どちらから魚を取りに行くかという問題で、潮の流れの区別がなくなるわけではない。もちろん、これはサービスのあり方の問題、つまり同報型・フロー型から迫るのか、個別アクセス型・双方向型から乗り出すのかという問題で、最初から親潮用周波数と黒潮用のそれが決められていて、未来永劫変わらないという話ではない。
漁法で言うならば、テレビ側はもともと内海漁業だったということもあり、NHKという捕鯨船団を別にすれば、4〜5のグループに分かれた127艘の小型漁船が旧来の釣り棹や網で魚を追おうとしている。通信は、規制緩和により外国船舶も含め新式漁法を駆使する起動力のある外洋向けトロール船団だから、漁獲量に自ずから差が出る。中には、造船から流通まで多角経営能力が高い大型船団もある。
テレビの強みは、今のところ客の好む魚の養殖に成功し、通信から羨ましがられていることだろう。養殖魚を解放して、通信側の潮に放つべきだという要求は強い。しかし、養殖魚といっても、稚魚を仕込む業者は別にいて、彼らの権利を無視するわけにはいかないという難問もある。
譬え話ついでに言うならば、地中海貿易のガレー船と大航海時代の大型高速帆船の違いにも通じる。コロンブスやバスコ・ダ・ガマのような探険家の後の大航海時代の主役は、冒険商人と宣教師だというが、確かにIT技術の登場に続くベンチャービジネスと市場主義経済イデオローグをみれば、それも頷ける。西欧絶対主義国家によるオリエント進出が先進資本主義国に引き継がれ、その遺産がいまやポストコロニアルという研究領域となっているのだが、それではいま起こりつつある潮流の「衝突=融合」は、将来何を私たちにもたらすのだろうか。
そう考えると、この潮流と海洋の譬え話は思いのほか根が深い。IT革命の「革命性」とは、そこに、伝統と近代、ナショナルとグローバル、文化と産業、営利性と公共性、技術と思想、個と全体、異端と正統、開放と自立、国家とメディア、などなどこの国で130年の間に幾度となく繰り返されて来た論点を一挙に明らかにしたところにある。
技術の進歩とそれによるブレークスルーで経済構造が変化する中で、先端的なビジネスを走りきろうとする側から見れば、それ以前の成功事例は阻害要因に見えるだろう。いま、ネットビジネスがテレビを見る目線は、かつてのテレビが映画産業を見ていたものと似たようなものだと思う。テレビはとりあえず、漁法の改善、魚群探知機の改良、船団の見直し、内海漁場の新規開発、遠洋漁業研究、消費者の嗜好の把握、缶詰の製造流通開発、などなどに追われている。だが、そのときに「テレビに何が可能か」という根本的な問い(この問いは、35年前に問われた問いである 註)に行き着かない限り、ポスト・デジタルの時代を生きていけない。ポスト・デジタルとは、デジタルの次の技術という意味ではなく、デジタル情報環境が定着した状態、つまりそれが当たり前の状態という意味である。それは、もうそこまで来ているのだ。
Re-Television「いま、テレビジョンの原点を問いなおす」。
これがキーワードである。
註 萩元晴彦 今野 勉 村木良彦「お前はただの現在にすぎない」(田畑書店)
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