
No33.「会社は誰のものか」 |
2005.9.15 |
岩井克人さんの「会社は誰のものか」(平凡社)と中川一徳さんの「メディアの支配者」(講談社)を続けて読んだ。二冊とも数ヶ月前の出版だが、つい読みそびれていたものだ。どちらも冒頭にライブドアによる買収劇が登場する。
会社という存在についての、経済と法と倫理を平明に解説した前者と、まことに凄まじいメディア支配への欲望を克明に記録した後者を読み終えて、会社は誰のものかと言う問いに、何重にも重なった複雑な思いが残った。
岩井さんは、前著「会社はこれからどうなるのか」に続いて、ポスト産業資本主義における会社のあり方と株主主権論の破綻を語っている。その論旨を多少乱暴に括ってみると以下のとおりになる。
1. |
会社はモノ(人ではない)であると同時に人=法人である。会社は人として契約当事者である等の行為主体になりうる。 |
2. |
産業資本主義において、労働力は余剰状態にあり、設備・装置が利潤の生成条件であった。このため、株式による資金調達に意味があり、株主の権利が強く経営を拘束した。そこでは、金(カネ)の力が経営を支配する。株主はモノとしての会社を所有する。 |
3. |
ポスト産業資本主義において、利潤は製品の製造によってではなく他者との差異により創出される。これは、資本主義の本来的仕組み(例えば「ベニスの商人の資本主義」) であるが、現代ではその差異は人の知的能力によって生み出される。 |
4. |
カネは人を採用することにおいて影響力を行使しえても、人(の知的活動)を所有することはできない。そこでは、カネの支配力は低下する。 |
5. |
株主主権論は、ポスト産業資本主義の時代では間違いだ。 |
6. |
市民社会において、法人は人(=市民)としてその構成要因であり、したがって社会的責任を有する。その意味で会社は社会のものである。 |
この要約が適切かどうかはともかく、僕にはとても説得的な論理だと思った。
知的財産の重要性や人的資源への投資の必要性が指摘されているが、岩井さんはイギリスのサーチ&サーチ社(広告代理店)の例などを挙げて、人(=知的活動)の重要性について具体的に話を進めている。また、岩井さんの言うように、メディア企業はポスト産業資本主義型の会社である。以前に、このメディア・ノートにも書いたが、テレビ機能の鍵は「日々生起し漂う情報(気体)を、形(液体または固体)にする」ところにあるのであって、まさにいかに差異を作り出すかがメディアの生業なのである。
さて、一方の「メディアの支配者」については、要点を書き記すことも、余計な感想もいらない。一言で言えば、支配の支配たる所以は「自己増殖とそのための排他の力学」であり、そこにはあの「奴は敵だ。敵を殺せ」という裸にされた政治の原理に通じるものがある(註)。株も組織も人事も、全て支配の道具である。会社は支配者のもの以外のなにものでもない。間違いなく、これもまた一つのテレビ史である。
二冊の本を読み終えて、放送局とは如何なる会社かということを考えざるを得ない。免許あるいは免許事業とは何か、周波数監理は国の専権事項であるということは自明のことであるか、免許事業の公共性=社会的責任はなにをもって示されるべきか、免許事業と株式会社=法人経営と市場性とはどのような関係であるべきか、そしてテレビジョンの可能性は既に「消尽」されてしまったのか、などなど。
デジタル化の本当の命題はこれらのことに向き合うことであるはずだ。
この原稿を、9.11.の選挙速報を憮然とした思いで見ながら書いているところである。
註:「幻視の中の政治」埴谷雄高
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