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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No34.「芸ということ」 2005.10.1

 久しぶりに文楽を見た。この世界が好きな友人に誘われて、国立小劇場で年に2,3回見る機会がある。今回は、「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」(四、五段)と「女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)」(通し)だったが、特に後者は面白かった。
 解説によれば、近松門左衛門のこの作品は「実説は伝わりませんが、無軌道な青年が起こした、凄惨な殺人事件という、異色作であったからでしょうか、初演以来、上演は絶えて」いて、昭和57年に通しが実現したとある。実際の事件を基にしているのかどうか解説には書かれていない(文楽や近松について少し調べれば分かるだろう)。確かに前者の「菅原伝授手習鑑」が忠義のためにわが子を死に追いやる話であるのに比べれば、当時(江戸中期)のモラルや美意識の中では相当に毛色の変わった作品だっただろうし、心中モノのような切羽詰った心情を描いている訳ではないから、客の評判が定まらなかったのかもしれない。それに比べ、前者は見る人を感泣させることで大好評だっただろう。「女殺油地獄」のような、救いもカタルシスもない劇を仕立てるところに近松の近代性を見るという解釈もあるのかもしれないが、これ以上の感想をいうだけの知識はないからやめておこう。

 では、何が面白かったのか。
 先ず、文楽人形の芸である。油屋河内屋の息子与兵衛が金に困り、同業の豊島屋(てしまや)の女房お吉に借金を頼むが断られ、殺害する場の人形遣いが凄い。逃げ回るお吉と追う与兵衛、お吉が倒す油桶から流れる油に滑り、転び、組み付き、振りほどき、小劇場とはいえ上手下手まで、時間にすれば2,3分だろうが、一体に3人ずつ計6人によって操られる与兵衛とお吉に観る者は息を呑む。客には人形遣いが見えているが、観てはいない。凄い芸だ。文楽として上演されたものが歌舞伎になる演目も多いというが、この場面は役者が演ずるより、文楽の方が迫力ある表現になるのではないか。それに、初演から200年以上も途絶えていた作品の表現方法について、どういう風に組み立てて行ったのかも興味深い。いわゆる演出家がいないのだとすると、シェークスピアの再演とはまた違う。芸の世界の不思議さである。
 もう一つは、語りの魅力だ。義太夫はストーリーと台詞を語るだけでなく、三味線を加えた音響として、劇場を一つの空間にする。舞台横に語りの文字も表示されるが、慣れるまではついていくのに苦労しても、やはり耳で受け止めるのがよい。例えばその殺しの場面、

「右手(めて)より左手(ゆんで)の太腹へ、刺いては刳(えぐ)り抜いては斬る、お吉を迎ひの冥途の夜風。はためく門の幟の音、煽(あう)ちに売場の火も消えて、庭も心も暗闇に打ち撒く油、流るる血、踏みのめらかし踏み滑り、身内は血汐の赤面赤鬼、邪見の角を振り立てゝ、お吉が身を裂く剣の山、目前油の地獄の苦しみ、軒の菖蒲(あやめ)さしもげに、千々の病は避くれども、過去の業病逃れ得ぬ、菖蒲(しょうぶ)刀に置く露の魂(たま)も乱れて息絶えたり」

  と語られる。語りは平家物語や太平記など、メッセージの伝達手段として広く定着していた形式だ。文字の浸透により衰退したのだろうが、現在のサイバー型表現の氾濫に対する身体性の復権という観点から、もっと語りの再評価がなされても良いように思う。
人形遣いも義太夫も、技巧の素晴らしさではなく様式に高められているところに芸たる所以があるのだろう。

  こういうことを思いつつ、突然思い出した言葉がある。「姐さんはこう言ってました 芸は売っても 身は売らぬ あたしはオヒゲのお客さんに言いました 身は売っても 芸は売りません」、これは高見順の短編詩「昭和期」である。ここに、高見順の戦時下の体験を読み取ることは容易だが、こう言い切ることで、彼は「書き続けること」を選択した。では、高見順にとって芸つまり書くこととは何か。
  また、「奴隷であっても寓話くらい書けるだろうではないか。イソップは奴隷だった。」(昭和十九年の秋)とは、詩人谷川雁が学徒出陣する友に贈った言葉である。これは芸の極みであろう。
  さらに、「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」とは、後段の部分は中国の白紙文集にあるのだそうだが、これを引きつつ十九歳の藤原定家が、源氏追討の話題で騒がしい世上の中で歌人としての意思を書き記したものだという。戦時期にこれを読んだ堀田善衛は「定家明月記抄」で、「その時世時代の動きと、その間に在っての自己自身の在り様とを一挙に掴みとり、かつ昂然として言い抜いていることは、逆に当方をして絶望せしめるほどのものであった。」と記している。
  「天下第一の職業歌人」の芸(この場合は道というべきか)と、作家であれ奴隷であれ書くという芸と、あるいは文楽の芸とでは、それぞれに意味合いが違うといえばそれまでだが、それにしても芸=表現とはなんだろう。

  芸=表現は時代から自立しうるや否や、そしてテレビジョンは何がしかの芸を提示しうるや否や。提示するというほどに明確な形とは言わないが、しれっと織り込んでおくことくらいは出来ようではないか。もちろん、そのためには芸についての自覚とそれなりの力量が必要だが…。



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