
No35.「3冊の本/国家・近代・阿片」 |
2005.10.15 |
3冊の本を読んだ。
「国家とは何か」(萱野稔人/以文社)、「竹内好論」(松本健一/岩波現代文庫)、「阿片王/満州の夜と霧」(佐野眞一/新潮社)。どれもとても面白かった。このところ、読書については「アタリ」が多い。
「国家とは何か」で、萱野さんは「国家の存立基盤は暴力を組織化する運動である」と言い切る。契約説を下敷きにした国民国家論に慣れ親しんでいる現代人にとって、刺激的で原理的提起だ。なんだか、政治学言論のおさらいをしたような気がするし、市場経済万能論やナショナリティー再考が賑やかな中で、国家という視点からの考察は新鮮だ。ドゥールーズ/ガダリの読み込みをベースにしつつ、ホッブスやスピノザに遡り、シュミットやアーレントを経て、フーコーに言及しつつ、論理的に且つ歴史的に国家とは何かを説き明かす。少しずつ聞きかじった思想家たちの「説」を手際よく組み立ててくれているのも助かる。最後に、小さな政府=国家からの自由という最近の言説に対して「(そうした言説は)国家と資本主義の関係をとらえ損ねている」とした上で、「『小さく』見える国家こそ、もっとも抑圧的な国家である」という。そして、こうした国民国家の変容における鍵はマイノリティーであるが、マイノリティーとは、数によって規定されるのではなく「ポジティブに提起されたステータスや場所をもたないということである」(ドゥールーズ/ガダリ)であり、マイノリティーがいかにして国家の公理と対峙するかが本質的課題だとしている。文章は平易で読み易い。70年生まれというから未だ若い。こういう研究者が登場してくるのを知ると、世の中満更捨てたものではないという気がしてくる。
「竹内好論」は、以前このノートで触れた「竹内好という問い」(孫歌/岩波書店)の延長として読んだ。竹内好の思想形成を跡付けながら、「日本の近代において自立とは何か」というアポリアを解き明かそう試みている。昭和20年を挟んで、竹内が何を考え何を行為したか、戦前戦中の日本の経験から何を汲み取り何を組み立てるべきか、ポツダム宣言受諾の後に内戦が起こらなかったことへの竹内の違和と、最近放送しているNHKの戦後体験の連続インタビューの中で、米軍のジープを追いチョコレートに歓喜したことを語るかつての少年少女たちとの落差をどうとらえるべきか、それらの構図の中に現在のこの国があるのだろう。戦後の5年間(朝鮮戦争と講和に至る時間)を軸に日本の130年の近代を腑分けする必要があるのだと思う。
「阿片王/満州の夜と霧」は、それについて一つの地下水脈があったことを裏付けている。日中戦争はアヘン戦争だったことを、その中心にいた里見甫という怪物的人物についての詳細で驚嘆するほど執拗な取材を通して解きほぐした優れたノンフィクションである。佐野さんの「東電OL殺人事件」を読んでその力量に感服したものだが、この「阿片王」も凄い。五族協和や大東亜共栄圏の虚妄を事実を通して語らせている。ついでにいえば、里見甫はアヘンの売買の元締めになる前は満州で国策通信社を経営していて、その通信社が国論形成のため同業の電報通信社のニュース配信業務を統合し、電報通信社は広告専門事業となって戦後電通となるのだが、こうした経緯の中で編み上げられた人脈は、戦後のメディア界生成期にも色濃く影を落としていることが、この本でさり気なく記述されている。
さて、いつもはここで牽強付会であろうともテレビの現在について触れるのだが、今回は何をいうべきか。
1. |
国民国家の枠組みの中で、国家を「想像の共同体」(時々「幻想の共同体」と書いてしまうが、ベネディクト・アンダーソンの著作の翻訳では「想像の共同体」となっている)として機能させたマスメディアが、国民国家の変容の中でどのように振舞うのか。国民経済システムの構造的維持からグローバル経済への移行に伴い、国家は逆にナショナリティーを強化するとも考えられるが、そうだとすると文化=イデオロギー機能がメディアに求められるのではないか。 |
2. |
そのような状況に対して、テレビ自身はいかなるメディア論を構築しうるか。いまに至るまで、テレビが有効なメディア論を形成し得なかったとして、そうだとするとそれは何故か、そして(それにも拘らず)今後有効なテレビ論を構築しうるか。「論」とは、現場と経営の行為の謂いである。 |
3. |
戦後論としての日本のあり方をテレビとしてどう表現するか。NHKの聞き書き的連続インタビューは一つの方法である。他に何が可能か。企画としてというより、方法として。 |
4. |
ネット型情報システムの浸透は、技術の問題ではなくメディアの問題である。テレビはマジョリティーとして認知されてきた。では、マイノリティーとはどう関係するか。そして、インターネットは…? |
5. |
一人の作家のドキュメントに対して、テレビドキュメントは何を提起できるか。テレビの記録性とは何か。集団による記録表現とは何か。 |
さて、次の読書にとりかかろう…ところで、ネットワーク社会における読書という行為は何だろうか?
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