
No37.「ローカル民放の存在理由」 |
2005.11.15 |
この頃ローカル局との接触が多い。もちろん、地デジ(地上波のデジタル化)関連のことである。
全国地上デジタル推進協議会(全国協)の総合推進部会は、中継局地局・公的支援・補完的伝送路の三点セットを軸に、地上放送事業者の選択肢とこれに関わる国の政策方針が様々に提起される場であり、1年後(2006年末まで)の全局のデジタル放送開始は概ね状況は見えてきたものの、2011年のデジタル完全移行までに解決すべき課題=難問は限りがない。全国協はNHK・民放・総務省が対等の立場で合意形成を図るという組織原理により成立しているが、いうまでもなくその三者は夫々にその存在条件を異にする。特に、総務省=国は、最終的に政策遂行の権限と責任を有するものであるから、合意形成において対等といっても特殊な関係であることに変わりはない。行政と事業者は厳しく対立する状況に直面することが少なからずある。その底流にあるのは「地デジ国策論」であり、それは「2011年のアナログ終了の最終責任は誰が負うか」という論点に集約される。その総合推進部会の部会長というのは、事業者としてデジタル化を如何に遂行するかという立場に立ちつつ、政策方針の具体化をより合理性の高い形で実体化するという離れ業のような取りまとめを求められる。
現在、全事業者の中継局建設計画の集約が焦眉の急の課題となっている。現行アナログ放送と同等のカバーエリアの実現を目標に計画策定が求められているが、各地の放送事業者の置かれた経営状況・地理的条件・政策的経緯、などにより、地域による難易度の差は大きい。ここから先は検討途上のことであり、具体的なことを書くわけには行かない。いや、以下のことでさえここに書くことは些か問題があることは承知している。しかし、こうした作業の中でいくつかの地域やローカル民放の経営者とお目にかかって感じたことを、敢えてノートしておこうと思う。これは地デジの問題であると同時に、民放業界の近未来にとって重要な示唆があるからである。
鹿児島県には奄美諸島があり離島が多い。地図を見ていただきたい(ここをクリック)。その最南端は与論島で、親局から9段中継で600km。この距離を北東に延ばすと広島に達するという。この空間を、途中の島々に中継局を設置しつつ海上伝播して地元民放局は「あまねく」を実現している。奄美諸島には三つの復帰があったという。本土復帰は1953年。この領土の復帰に加え電力、そしてテレビ。…テレビは本土復帰のメルクマールだったのだ。
離島の振興は「奄美振興法」といわれる立法措置とそれに基づく行政措置によって進められてきた。鹿児島はいうまでもなく、台風襲来地区である。今回のデジタル中継局置局に当たり、地元局は対台風適応も含め長期の実験により海上伝播の適応性を確認した上で、海底ケーブルなどの方法ではなく海上伝播を選択した。そして、それは「奄美振興法」が引き続き適応されることが前提とされている。
さて、鹿児島地区の社長の皆さんと面談しつつ全国協総合推進部会長として敢えて次のように要請した。「離島部分の例えば中間地点まででも自力建設するということを検討していただけないでしょうか」。私も民放局に籍を置く身であり、相手は経営トップの方々だ。こういう関係はなかなか辛いものがある。この時、一人の社長がこう発言した。「中間まで自力でやるなら、赤字になっても全部やります。そうでないと他の島の島民が納得しないでしょう」。つまり、どこまで本土と同等の関係かということは、島の人々にとって帰属意識あるいは心理的距離感として極めて大きな意味があるということである…と私は直感した。繰り返していうが、この問題は「条件不利地域」のデジタル中継局建設を公的措置で対処することが適当かどうかの問題として書いているわけではない。それは検討途上の問題であり、且つ又心情的に判断することではない。仮に公的措置がありうるとしても、それは透明性・公平性が求められることは当然である。では何が問題か。
東京局も免許上は一ローカル局である。しかし、全国ネットワークのキー局である東京局とローカル局とは自ずからその立場は違う。一方では、地域民放はその地方で最も条件の良い企業であり、番組の大半はキー局からネットワークで送られてくるものであり、経営努力もしないまま利益を上げているという批判がある。このことの当否はここでは置いておこう。また、「赤字になっても…」という発言は、経営者として如何なものかということも簡単だ。あるいは、いわゆる「一県四波化政策」の破綻を指摘することもできるが、それもまた別に論じることにしよう。さらに、社長たるもの相当にしたたかでなければならないのだから、結局は公的措置の要望なのだということも出来る。それやこれや全部まとめて承知した上で「ローカル民放の原点とは何か」、という問題をここに見ることが出来るのではないだろうか。
企業が、自社の社会的責任の自覚=プライドを喪失したとき、そこに残るのは荒廃である。「言論機関である民放が安易に公的支援を求めるべきではない。だから最大限自力建設を経営的に判断して欲しい。」と私は全事業者説明会で要望した。そうした経緯の中から今回の会話に至ったのだが、そこで自社の情報を自力で一人でも多くの地元視聴者に届けるという現行放送法制上の責務を、制度の問題としてではなく経営意思として問いかけているローカル民放局の思いが投げかけられた。地デジの原点は何かということである。
鹿児島の例を挙げて話を進めたが、アナログでは日高方式という独特の方法で自治体が整備した約50の中継局など、多数の中継局対応に直面している北海道や、鹿児島より遠隔地で海底ケーブルで離島に伝送している沖縄など、様々な「条件不利地域」を抱えるローカル民放局は他にもある。デジタルという技術革新により、旧来の環境は否応なく変化する。それは産業構造の変化をもたらしつつある。現行制度が何処までこの変化に対応しうるかは未知数だ。例えば、「あまねく」は個々の民放事業者に課されるべきか。これは、融合時代のユニバーサル・サービスのあり方に直結する問題だ。あるいは、衛星やケーブルやIPが補完措置であるとして、では「補完」とは何か。それらは補完ではない機能=情報の共有化を果たしうるか、そうだとすれば「放送とは何か」。
ともあれ、制度は制度として現存する。その改変には今しばらく時間がかかるであろう。そのなかで、ローカル民放の存在理由を無意味だというわけには行かない。テレビが本土復帰の象徴だということは、戦後体制が国民国家であることの外延的担保(=共通の意識空間を構成すること)でもある。いま、日本は戦後=モダンに続く選択に向き合いつつ(という自覚がどのレベルで成立しているかも含め)多層的に軋んでいる。かくして、デジタル化はローカル民放の「志」の意味と無意味の狭間を照射してしまった。この問題を放置して地上波のデジタルという問いは成立しないであろう。
ネット事業者がテレビにアプローチするとき、この問いはどれ程の重みを持つかといえば、「技術と市場が解決する」ということであろうが、そうだとすればそれが正解だという根拠が提示されるべきであろう。
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