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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No43.[「入れ子構造論」補論] 2006.2.15

  [MM41]の「テレビジョンとインターネツトの『入れ子構造』という仮説について」を読んだ知人から質問を頂いた。自分の書いたものについて質問されると、対抗的に身構えるか、それとも自分の中の曖昧さを隠しつつ解説的エキスキューズを加えるか、無視からゴメンなさいまでの幅で対処することになる。今回の質問は、しばしば陥りがちな傾向、つまり自分だけ解ったつもりになっていたり、解っていることの表現に短絡があったりする部分だと思うので、{MM41}の補論のつもりで少し書いてみたい。

質問1
 「テレビは時間のメディアとして秩序を超える契機を内包するが、空間のメディアとしては秩序そのものとして機能する」 ここで言う“秩序”とは、何を意味しているのでしょうか?“空間のメディア”とは、システムとしてのメディアという意味なのでしょうか?

補論1
 “秩序”とは、権力維持システムを意味しています。この場合、権力という概念には価値性(権力は必要悪あるいは反権力は人民の権利、というような意味で)を付与していません。しかし、権力維持システムから排除される諸価値があることも事実です。そして、それらの諸価値を存在理由とするのが文化というものではないかと考えています。さて、「権力は歴史として時間を再編する」が「テレビジョンは歴史(時間)の再編を拒否することで存在そのものが反権力である」とは、テレビ論の原点を提起した「お前はただの現在に過ぎない」で喝破されたテーゼです。ただし、権力は時計の発明以来、人々の生活上の時間を秩序化してきました。テレビが日常のメディアとして基本的に「時代と添い寝」をしている間は、権力の時間管理の線上で機能します。しかし、現実が権力の時間管理を超えるとき(例えば、ベルリンの壁崩壊のような危機的状況では)、テレビジョンは時間管理の外に身を置くことが出来ます。まさに、メディアがメッセージになるときです。権力がメディア規制に執着するのは、その政治的言説が反政府的かどうかではなく、この時間管理の思想によるものだと思います。
  一方、本論の冒頭に触れたとおり、マスメディアは「想像の共同体」としての近代国家を出現させる重要な契機の一つです。「想像の共同体」とは、「共通の意識空間」としての権力維持システムの形成であり、そこではテレビジョンは「空間のメディア」として機能します。その意味で、“空間のメディア”とは、システムとしてのメディアという意味なのでしょうか?”といえば、そのとおりです。その場合、システムという概念をどのような考えるかであり、マスメディアのシステムが自己完結的に成立しているのではなく、常に本質的に政治との緊張関係に置かれているということが重要なのだと思います。ここまできて、「時間の破綻が空間の破綻に繋がる」ことを、権力はしっかり見抜いているのだと気づかされます。さてところで、インターネットにおいてはこうした問題は、のように「問題」として対象化されるのか、それが問題です。

質問2
 「周波数監理という無機的規制を基にした最小限の事前規制は、情報の信頼性の基礎となる情報編集機能を制度的に担保するものだということになる」
なぜ、法による規定が情報編集機能を制度として担保するのでしょうか。


補論2
 「法による規制だからこそ、制度として担保可能なのだ」ということですが、それでは余りにも無愛想ですね。
 メディアとしてのテレビジョンについて、日本国憲法が言論表現の自由を保障している以上、国家(政府)はそれを尊重しなければなりません。一方、周波数使用免許を付与するという観点からは、(1)国家財としての周波数、(2)その有限希少性、(3)社会的影響力、(4)公共の福祉との関係、といった観点からテレビ(ラジオ)に、制度上の規制=責任を課す必要が求められることになります。メディアとしての倫理やそれを形にした綱領だけでは、不十分というわけです。しかし、ジャーナリズムに対して、情報そのものを制度=法によって規制することは不可能です。政も官もそれを承知しています。そこで、電波法=放送法という周波数監理の法体系(=情報管理の体系ではない)の中に、政治的公平性、公序良俗、訂正放送、というような最小限の事前規制の規定を取り込むことで、政治とメディアのバランスをとっているのが日本のメディア規制の背景だと思います。このあたりは、智恵というべきなのでしょう。ここでは、政と官と民の関係はなかなか微妙です。「官」は法=制度という規範の外からメディア行政に介入されることを嫌います。「政」は規範を超えて関与する力学が働きがちです。「民」は、本文にも書きましたが、「身を捩るようにして」編集権を確保しようとする、というわけです。

質問3
 「・・まさに『免許主体が情報編集機能を担保される』」ことこそが『ハード・ソフト一致』ということなのであって、放送波以外の伝送路による再送信サービススの享受を排除することではない」
“放送波以外の”以降の文章の主体は何になるのでしょうか。
前半を読むと放送局(マスメディア)のことをいっているように思いますが、後半は受け手(=視聴者)のことについての記述のように思われ、わからなくなります。
享受を排除されたりされなかったりするのは、視聴者側のことではないのでしょうか。


補論3
 この部分は、初歩的な文章構成の欠陥です。後段を正確にいえば「放送波以外の伝送路により視聴者が放送サービスを享受することを、放送事業者が排除するべきではない。それは不可能であり、また不適切である。」ということになります。
 ここでいいたいのは、「放送波以外による放送サービスの提供はハード・ソフト分離につながる」という主張がしばしば放送事業者から出されることについての整理です。放送法において「あまねく普及に努力する義務」は、民放事業者にも課されています。そこから、放送は放送波で提供するのだから、放送波以外による再送信は例外的(例えば、難視聴地域=最近では条件不利地域)に制限されるのが望ましい、という主張が出てきます。しかし、「あまねく」問題と、ハード・ソフト一致問題とは、論理が違うのです。「あまねく」問題は、免許対象地域で誰もが放送サービスを享受できるように中継局を置局することです。「ハード・ソフト一致原則」とは、周波数専用権を免許で付与された放送事業者が情報編集責任を負うことです。その上で、通信放送のいわゆる「融合」を考えるならば、「再送信」である以上「原放送」の形態が原則的に維持されることを前提に、伝送路の多様化(通信インフラの利用)による視聴者の選択は制限されるべきではないが、自己が責任を持って情報提供する放送と、他人の情報に介入してはならないことを前提に送信する通信の、概念の違いとそれに基づく規制の在り方は異なるものだ、ということをいいたかったのです。

質問4
 「入れ子構造論」は、仮説としてあるいはイメージとして分かるのですが、そこから具体的に何かが、例えば新たなビジネススキームや制度設計が生れるのでしょうか。


補論4
 ここまで基本的な質問に答えつつ思うのは、ネット時代における経済学的観点や事業的発想によるメディア論議(これが通常いわれる「融合」です。技術論的融合は当然のことなので触れません)は掃いて捨てるほどありますが、政治学的あるいは権力との関係からのデジタル時代のメディア論は些か寂しいということです。さらに加えて言えば、表現論的テレビ論も同様でしょう。このことは、テレビがそうした「論」に耐え得ないメディアになってしまったことを示しているのではないでしょうか。それは、テレビジョンに関わる人間の責任です。「放送は文化だ」といえば言うほど、「論」のない文化はありえず、そうだとすればテレビジョンは衰退の状況を迎えていることになります。それでも、テレビジョンの可能性はあるのだと僕は思っているのです。そのためにも、テレビ論的問題提起は欠かせないと考えています。「入れ子構造論」から、ビジネススキームが生れるか、新たな制度設計の契機になるかは分かりません。ただ、 「原点」の発見と確認が、今ほど必要な時代はないと思います。この先は、僕も考えますが、読み手としても考えて下さい。



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