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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No45.「金メダルと著作権」 2006.3.15

 いまさらトリノオリンピックの話でもないのだが、荒川静香が金メダルを獲得したことで二つのことを思った。
 一つは、制作現場からメディア周りの仕事に変わってもう20年以上立つが、その最初に関わったのがHDTV(当時はハイビジョンという名前は未だなく、高品位テレビといっていた)だったが、もう一つはビデオソフト・セクションの立ち上げだった。ポニーキャニオン(フジ)やVAP(日テレ)のような関連会社がTBSにはなかったし、パッケージビデオ担当の社内組織もなかった。テレビはあくまでも放送が主流で周辺ビジネスに関心がなかったのか、それともパッケージではたいした売り上げも見込めないと思ったのか、慎重論が支配的だった。それまでの提案も計算上採算が取れるまで相当の時間がかかるという趣旨のものだったようだが、あらためて提案書を書く役回りが振られたとき、「べき論」で言えば設立すべし、という趣旨のメモを提出し、それがきっかけで漸くビデオソフト部が誕生した。兼務発令もされたので、暫くそちらの仕事も担当した。その第1回作品が、その頃TBSが強い関係を持っていた「世界フィギュア」のビデオ化だった。
 その時最後まで残った難問は、演技の際に使用された楽曲の著作権処理である。遂に権利の所在が不明のままの曲があり、やむなく販売に踏み切ったのだが、タイトルに「権利未処理のまま使用している曲があるが、権利関係者がこのビデオソフトを視聴した場合は速やかにご連絡下さい。適切に処置します。」という趣旨の表示をして販売に踏みきったはずだ。結局、トラブルはなかったと思う。演技用の曲の著作権処理がビデオ化の際に必要だということは、著作権的?に考えれば理解できるが、些か釈然としないものを感じた。序にその時分かったのは、当然のことだが販売会社に納品するには、納品伝票が必要なのだが、テレビ局にはその納品伝票なるものがなかったということである。テレビ局は「モノ」の売り買いとは別の世界にいるのだということだった。

 さて、もう一つ思い出したことは、荒川静香が演技で使った「トゥーランドット」についてである。以前にもこのメディア・ノートに書いた宮田吉雄さんのHDTV作品「陰翳礼賛」で、この「トゥーランドット」が存分に使われている。宮田さんは、これに限らず幾つかのオペラやクラシックの曲を使用している。こうした事情もあって、「陰翳礼賛」はコンクール参加やデモ作品として上映可能たが、権利処理が複雑でデジタルHD放送やビデオ化が容易ではない。宮田さんの頭の中には、例えば「ここはトゥーランドツット」という牢固としたイメージがあり、それ以外のものではダメだったのだ。「トゥーランドットのような音楽」ではなく、そのものが必要だったのだ。これは、模倣とか盗用とかではない。新しい表現の創出とはしばしばそういうものなのだ。
 こうした考え方を「パブリックドメイン」と「贈与経済」というキーワードでまとめたのが「表現の自由VS知的財産権―著作権が表現の自由を殺す」(Kembrew McLeod)である。この本の最初の方に、薬品会社が被験者のDNAを自社の知的財産として登録してしまう事例がある(知らなかったとはいえ、これには驚いた)。こうなると、知的財産権とは市場支配者のための利益擁護の制度になっているということになる。著者は、「著作権は、表現の自由のために存在する」という原点を繰り返し述べている。パロディーはもちろん、引用・借用・模倣は表現のための手段として容認されるべきだという。
 私たちは、コンテンツビジネスの原則として著作権保護を常に第一に考えている。それは、コンテンツに含まれる多様な権利者の権利が損なわれてはならないということと、海賊版の氾濫はコンテンツ市場の阻害要因と考えているからだ。それと同時に、優れたクリエイターは十分な名誉と報酬を得るのが当然だとも思っている。
 しかし、その成果物がより多くの人々に享受され、新たな創造の契機あるいはその一部になることが、「著作権」制度そのものによって制約されている(あるいは訴訟費用も含め極めて高額な対価を伴う)とすれば考えものである。人間の知的行為は、全くその個人だけで行われることなどありえないのであって、常にそれは人間が歴史的社会的に共有してきた蓄積の上に成り立っているのである。
 もちろん、全ての著作物はコピーフリーであるべきだ、というわけには行かない。それが「商品」として流通する以上、権利者の権利保護のために何らかの制度的・技術的措置を伴った社会システムが必要だ。だがその時、権利者オリエンテッドという過度の囲い込みがあるのではないかと疑ってみることもたまには必要だ。現行著作権制度の下で、デジタル時代のコンテンツ流通のあり方を権利保護という観点から検討するのと平行して、こうした原理的な視線で著作権問題を考えることをしないと、私たちは気づかないままに表現の自由という「生存権」的権利乃至は人間が生きて行くための「公理」を見失うことになるのではなかろうか。
 トリノの金メダルは色んなことを気づかせてくれた。荒川静香に感謝。



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