
No47.「視線と政治(学)」 |
2006.4.15 |
「写真で読む 僕の見た『大日本帝国』」(西牟田靖/情報センター出版局)が出版社から送られてきた。以前(05.6.1.)、このメディアノートで「僕の見た『大日本帝国』」について触れたことがあり、それが編集者の眼にとまったのだろう。添えられた手紙に書評についての謝辞が記されていた。書評というほどのものではないが、書いたことに反応があるのは嬉しいことだ。
本が送られてきてから大分経つが、その間読もうと思っていた本が溜まっていてなかなか手がつかず、漸く先日読み終えた。「写真で読む」とあるように、今回の編集ではかなり多くの写真が取り込まれている。だが、写真集というのとは違う。前回の「読み物」と合わせ技“一本”というところだろうか。前回の出版にこれだけの写真が載っていれば良かったのにと思うけれど、これもコストと売れ行きの相関関係によるのだろう。
西牟田さんの目線は文章でも写真でも変わらない。率直に対象に向き合うのが良い。今回の出版は、前回の延長なのだからそこが変わるはずがない。だからこそ、彼が次に何をどう見るのかが気になる。
というのも、本のカバーに「右でも左でもなく」というフレーズがあり、これが今回の「売り」になっているようだが、これは西牟田さん本人の意識なのか、それとも出版社の営業感覚なのか、そこがやはり気になるのだ。このフレーズより大きく、カバーに「歴史に触れてはいけない禁忌などない」と書いてあって、それはまさにそうだと思うのだが、そのとき「どのような目線で見るか」ということが当然問われる。右か左かということではなく、目線そのものは無色透明ではない。正にそこが問題なのだが、その目線は自覚的であれ、無自覚的であれ、「政治」とは無縁ではいられない。国民国家の構造とはそういうものなのだ。西牟田さんはこの次の仕事でどのようにこの国の政治(意識と構造)と向き合うのか、そこが問題だ。西牟田さんがサハリンで鳥居を発見した驚きをどう深めて行くのか、そこに興味がある。
ほぼ同時進行で、「姜尚中の政治学入門」(集英社新書)を読んだ。「日本の戦後民主主義が生き延びて行くためには、沖縄や、朝鮮半島の南端にある韓国のような『後背地』の存在は、絶対に不可欠でした。」「私自身、この歴史認識問題は、日本、朝鮮半島、中国など、東アジアにおける100年分の宿題が一気に登場してきたものと理解しています」。姜さんと西牟田さんは会話すべきだ。西牟田さんの感性と姜さんの論理の交点が今求められている。なぜならば、その交点にこそ「当該社会の政治的成熟度が、もっとも試される」(姜尚中)「歴史問題」を共有化する鍵が存在すると思えるからである。
こういう感想とは別に、「姜尚中の政治学入門」は様々な力学に晒される現実政治の磁場を考えるためのいくつかの基本的論点を提出している。政治学の原点の見直しともいえる。姜さんは政治と政治学を往還しつつ状況に正対しようとしている。この姿勢は大切だ。
ところで、「政治学」の現代的重要性はもう一つある。それは、例えば規制改革や市場主義が進めようとしている政策行為における政治学的アプローチの欠落である。経済学あるいは経済政策が財の効率的利用の社会化を目的とするものだとして、それは人間の社会的行為の全てではない。特に、政治は権力行為として包括的に生活を包み込み、生活の余剰である文化=表現行為にも浸透する。経済(学)的アプローチがしばしば陥る政治(学)的思考の停止は、それ自体の政治性も含めて要注意だ。
その意味で、逆に所謂「融合論」やネット至上主義に対してテレビが対峙する時の視線には、その深層においてより「政治(学)的」敏感さが必要なのである。「『もの』の詩学(多木浩二・岩波現代文庫)を読みながら、そう思った。が、そのことはまたあらためて。
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