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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No48.「横浜赤煉瓦倉庫」 2006.5.1

 横浜中華街での会合に行くのに、そごうデパートの売場の中を通り、シーバスに乗船して山下公園まで行った。途中、「みなとみらい21」と「赤レンガ倉庫」を経由する。改装された赤レンガ倉庫を見るのは始めてだ。もう30年近く前のことだが、ここでドラマのロケをしたことがある。
  インターネットによれば、「赤レンガ倉庫は、明治末期から大正初期に国の模範倉庫として建設されたレンガ造りの歴史的建造物です。創建当時から横浜港の物流拠点として活躍してきましたが、新港ふ頭が物流機能を他のふ頭に譲っていく中、赤レンガ倉庫も倉庫として利用されなくなり、地区のシンボルとして静かに佇んでいました」とあるが、ロケ当時は「静かに佇んでいる」といような状態ではなく、正に廃墟というに相応しい近代遺跡そのものありさまだった。
 僕の父が、1930年代の後半に横浜港から鎌倉丸だか秩父丸かで若き商社マンとしてニューヨークに渡った頃、この倉庫は活気に満ちていたに違いない。そして、今は観光資資本として再生されたということだろう。シーバスの上からそんな様子を見ながら、読み終えたばかりの「『もの』の詩学」(多木浩二/岩波現代文庫)のことを思った。

  「ブルジョアジーはつねに自からがひらいていく社会では、かつて人間が全体化をはかるためにもっていた古い価値がこなごなになり、断片化し、死に絶えることをおそれてきたのである。このおそれが美術館と博覧会を結びつける。一方の不確かな未来を他の確実な生産力で補い、一方の確実な過去で他方の欠落を埋める。芸術は資本主義的生産の一部になり、美術館と博覧会は、ブルジョアジーがそうとは知らずにうみだしていた意味生産の仕掛けの両輪として分化されたものだということができるようになる。いいかえればこの装置がなければ、なにも生まれなかったが、同時にそこに、私たちの過去と未来を制御するブルジョアジーの時間の政治学を読むことになる。」

 「『もの』の詩学」は、20年前に出版されているが僕が読むのは今回 が始めてだ。ページを開くたびに「アッ面白い」と思わされた。著者はあとがきで「70年代にどのような思考が展開されていたかを知る手がかりになろう」と書いているが、今読んでも充分に刺戟的だ。「もともと文化は本質的に政治的であるが、・・・」というような文章に出会うと、嬉しくてドキドキする。こういう文脈の中にテレビジョンを置いてみることが大事なのだ。それに比べれば、「通信と放送の融合」なんてどうでもいい話だ。
 赤レンガ倉庫と何の関係もない話しのようだが、一つの建物が建てられてから廃墟のような時期を過ぎ、新装再生される時間の中にも間違いなく 「政治的」なものが潜在している。赤レンガ作りという建築手法そのものが一つの歴史であり、「『もの』の詩学」が一章を割いている「キッチュ」的なるものではなかろうか。日本近代が真性の資本主義を目指す過程に登場した建築物の意味、日本 近代そのものがキッチュ的なるものではなかったかという問い、それら を読み解くことは間違いなくドキュメンタリーであり、テレビジョンが最も得手とし得る表現領域だと思う。

  あるいは、「『快楽』はいわば『もの』の沈黙の次元、表層のざわめきの下にある次元のように見えていた。だから、目ざまされた欲望もついに政治空間を解体する破壊力になれず、結局は近代国家の成立の中でプライヴァシーとしてとじこめられるに終わるが、問題は解消するどころか、それ以後ブルジョアジーを欲望と不安にみちた存在として生きさせることになるのである」というところから、ホームドラマの意味を読み取ることもできよう。
  「新・調査情報」に連載されている今野勉さんの「dAの時代」の体験的テレビ史も、あるいはその「新・調査情報」の最新号の久世光彦さんの追悼企画で語られる様々なことも、多木浩二さんのような目線でレビューしてみるとどうなるの か。テレビジョンは今そういう時代に入った。だが、それだけの力量を私たちは持っているのかと問われれば、即答することを躊躇う自分を発見する。それでも、これは誰かに任せていいものではないのだと思う。



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