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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No50.「デジタル乱反射 ・続 」 2006.6.1

 技術の社会科は、そこに先行する社会の諸相にどう遭遇するかによるとすると、デジタルというメディア技術の展開は日本のメディア環境の諸条件との関係で語られるべきである。
 例えば、ランダムに日本のメディア環境の特徴を列挙すれば以下のようなものだろうか。

1. 差異の小さな社会/情報の連続性・非論理性
言語、生活水準、時差、民僕、等。
これについては多くの識者が既に様々な角度から論じている。但し、時差はともかく、言語も民族も単一ではない。小さな差異の中で、多様なグラデーションが連続する。つまり、非連続(断絶)が少ない。その分、ニュアンスや情緒的コミュニケーションが多く、論理的会話になりにくい。これも、色々な人が指摘している。
2. テレビの「過剰な?」普及
電波カバーエリア、受信機普及とも対世帯で約100%。ホントに真面目に置局してきた(下表参照)。テレビ視聴時間は個人で1日4時間、世帯で8H時間になる(ビデオリサーチ調査)。これは、この5年間ほとんど変化していない。この多メディア多チャンネル時代に、日本人はテレビの見過ぎだ?これもみんなが見ているものを自分も見なければ、という同一化の表れか。

【アナログテレビ置局状況】
  日本 アメリカ イギリス
 親局数 169局  1,752局  236局 
 中継局数 14,925局  5,184局  4,085局 
 親局1局当たり
 の中継局数
88.3  3.0  17.3 
 面積 37.8万平方km  936.3万平方km  24.2万平方km 
  (1)  (24.8)  (0.64) 
 人口 1.2億人  2.5億人  5,800万人 
 チャンネル数 62ch  68ch  63ch 
 1ch当たりの
 周波数幅
6MHz  6MHz  8MHz 
(郵政省資料により作成)
3. メール、ネット利用の携帯文化の進展(下表参照)。
電話という言葉はまもなく死後になるだろうか。電気通信において「話」という声のコミュニケーションはもちろん継続するが、それはその一部になる。「音声からデータへ」といわれたのは随分前(僕がそう聞かされたのでさえ15年くらい前だろうか)のことだ。それがどういう意味か良くわからなかった。説明してくれた側も、ビジネスベースを想定していたはずだ。しかし、それがこういう形で展開するとは誰も思わなかっただろう。BからCへの典型であり、その意味でモバイルの世界の進化は驚異的だ。携帯のキーボードが「かな入力」になっているのが、日本での普及の最大要因だ、という人がいる。そこに、世界初の携帯端末向け1SegTVサービス開始が加わる。メディア環境にとっては、相乗効果を生むということになるのだろうか。

【日本の携帯電話の普及と利用】
契約数 9000万(含 複数契約)

音声通話 固定電話発は04年度で前年比60%に減少
全体では、ピーク時の66%に減少

携帯電話の利用形態 ■メール利用90%以上 毎日利用70%
 □15通/日=15%
 □5〜9通/日=16%
 □1〜4通/日=40%

■ブラウザ利用60%以上(内有料サイト利用50%)
 □毎日利用=18%

4. コンテンツ産業としての映画産業の衰退
映画館はリニューアルされ、シネマコンプレックスも増加し、映画館産業は復活したようだ。国際的に評価される作品や監督も登場してきている。しかし、産業としての映画製作は沈滞したままだ。ハリウッド映画に席巻されているのはヨーロッパでも同じなのだろうが、日本の場合テレビが登場したときの映画経営者の選択の誤りが問題だ。あの時代に、テレビ番組の制作を映画が取り込んでいたら、日本のコンテンツ産業の中核は映画になっていたのではなかろうか。テレビは、自らコンテンツを制作するしかなかった。
5. ディスプレイ分野を中心としたエレクトロニクス産業が高水準。
日本のホームエンタテイメント産業は、テレビと家電産業が両輪だった。メーカーは競って新商品を開発した。国内市場が飽和状態になっても、輸出で国内生産が限度になれば拠点を海外に移して成長を続けた。アジア各国の生産が質量とも飛躍している現在でも、日本のディスプレイ部門の水準は世界のトップだという。だが、i-podは出遅れた?
6. 劇画・アニメーション・CG分野にクリエーター人材が集約。
劇画は日本独特の文化分野だろう。貸本というニッチな世界からスタートして、今や一つのジャンルを形成している。少女漫画も元気だ。アニメーションは「世界に通用するコンテンツ」である。CGはハリウッド型のスケールの大きな分野より(何しろ金のかけ方が違う)、CM作品などで精緻な表現が豊富だ。
7. テレビ・PC・携帯などのゲームが隆盛。
海外でコンピュータ系のゲームがどのくらい普及しているのか知らないが、日本におけるゲームの浸透度は相当なものだろう。サイバー感覚は日本人に馴染み易いのだろうか。映画的イリュージョンによる陶酔やテレビによるイメージ形成とは違う感性の蓄積により、ゲームの日常化から日常のゲーム化が進行している。
8. 世界最高速のインターネットインフラ。
インターネットのインフラ構築で遅れをとった日本は、光ファイバー網の敷設で「世界最先端」の地位にいる。これと同時進行で、通信業界は活性化し事業者間競争が利用を刺激している。通信業界の自由化の成果なのだろうか。「それに比べて、放送は…」ということになっている。
9. 国際情報発信力の未成熟。
近代化以前(江戸時代まで)、外来文明は西方からこの列島にやってきて、出口を持たなかった。この国で蓄積されその上に新しい外来文化が被さり、交じり合い、沈殿し、純化して行く。その層がいくつも重なっている。黒船はこれを暴力的に破壊した。それでもこの国(の一人々)はそれを消化したが、この国から情報を発信する術を身につけなかつた。自らの持つ「情報」の価値や意味を自覚しなかった。アジア志向の萌芽は、性急な侵攻的アジア主義に吸収された。同時代にしかを生きられない難しさがそこにある。それが現代に流れ込んで(敗戦の政治的思想的総括の不在)、情報発信は未成熟のままである。…という風に思えるのだ。
10. (明治維新以来の)130年の近代化の評価の不在。
…つまり、そういうことである。

  まだまだ、色々あるだろう。しかし、ともかくもこういう社会で、デジタル技術がどう定着するのだろう。デジタル問題が経済産業政策として突出して語られる危うさが、そこにある。その典型が、「デジタルメディアの普及とコンテンツ流通の停滞」という対比である。この問題設定は正しいか?
  例えば、「メディアとコンテンツ」という切り口と「メディアとメッセージ」という発想は大して違わないように見えるが、実はそこを見切ることが結構大事なことだと思う。「メディアとコンテンツ」という関係で考えるとき、そこには道路の上をトラックで荷物を運ぶというのに近い認識の仕方があるのではないか。これはどちらかというと通信的発想である。これに対して「メディアとメッセージ」という発想は、ライブ発信、時間軸に沿った情報編成(ジャーナリズムであれエンタテイメントであれ)こそメディアの原点だという思いがある。これはテレビであれ、ラジオであれ、ブロードキャストのDNAのようなものだ。それは、「メディアとメッセージは本来的に分離できない」という直感でもある。
  「コンテンツにメッセージが込められていれば同じではないか」という反論もあるだろう。だが、そうではないのである。社会総体の時間と空間の中でメッセージを形成する、それがメディアというものなのだ。そこでは、その危うさの自覚があるかが常に問われる。状況に生身で向き合う緊張こそ、ブロードキャストの真髄だとすれば、それは伝送と一体のものとして成立するのである。何しろ、テレビジョンは記録よりも伝送が先行した稀有のメディアなのだ。
 このことは、送信設備を誰が所有するかかという以前の問題だ。インフラ規制と事業法の上下分離が話題になっているが、敢えて乱暴に言えばそんなことはどうでも良い。それは、メディアのあり方の本質論ではない。もちろん、コンテンツ産業の現状から考えて、上下分離で問題が解消されるとは思えない。しかし、そういうことよりも「メディアとコンテンツ」という切り口で制度が変更された場合に、そこではメディアの本質的機能についての検証が排除されることが恐ろしい。これを短慮という。「コンテンツ流通」という捉えかたでは埒外に置かれてしまう情報があるということを、そしてそれこそが情報というものであることを見抜かなければならないのである。
 では、「メディアとメッセージ」という発想から「上下分離」や「通信・放送の法体系をゼロベースから見直すこと」に対峙しうる政策論が生まれるだろうか。「現状の制度で結構」といっていれば済むのだろうか。状況はそう容易ではない。この場合、状況とは某懇談会やら何やら委員会の議論のことを指しているのではない。まさに、デジタルという技術の社会化がこの国の「層」にぶつかって乱反射しつつある現在進行形の様をいうのである。その中でテレビというメディアをどのように捉えなおすのか、ブロードキャストが問われている問題は問いかける側の思惑よりずっと大きなものであるようだ。



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