
No55.「COGとEPN…複製技術と著作権」 |
2006.8.15 |
「情報通信審議会」は「地上デジタル放送の推進検討委員会」(通称:村井委員会)が取りまとめた「第三次中間答申」(以下、「答申」)を承認した。ここには、中継局建設ロードマップ、補完的手段の活用と公的支援、辺地共聴対策、受信機普及とアナログ終了の周知、などなど多様な課題の集約が行われている。その中で、些か異色のテーマに見えるのが「コンテンツ保護技術」に関する項目である。というのも、著作権保護はデジタルメディアの問題として確かに極めて重要な課題なのだが、しかしそれは「地デジの推進」という枠の中の話ではなく、もっと基本的な論点であるはずだからである。
どうしてこのテーマが村井委員会で取り上げられたかといえば、おそらく地デジ対応受信機が著作権保護技術として採用されたCOG(Copy One Generation=受信機内サーバーに蓄積されたコンテンツがコピーされると、オリジナルが消去される方式:ムーブ)について、その機器の性能(ムーブの失敗し易さ)も含め消費者からのクレームがあり、さかのぼって方式採用の経緯も含めた見直しが地デジ対応受信機の普及課題とされたためであろう。
「答申」では、(1)COGをEPN(Encryption plus non-assertion=テレビの放送コンテンツを外部出力ないし録画において暗号化するが、コピー枚数及び世代制限なし)に置き換える方向で検討する、(2)当該問題を知的財産のあり方との関係で総合的に検討する場を別途設定する、というものである。検討の場の組み直しは議論を本質的に考えるためには不可欠だと思うが、一方、EPNには権利者からの強い反対が予想される。
私は「村井委員会」では、主として中継局・補完手段・公的支援問題に対応してきたのだが、今年に入ってから俄かに委員会での焦点になったこの問題の議論を聞きまた時折発言しつつ、今の時点で思うことを少し整理してみたい。
論点は以下の3つである。
1.著作権を考える
2.著作権保護の技術的手段
3.文化産業とグローバリズム
1.著作権を考える
一月ほど前、とある著作権関係者から「放送と通信は融合しない」という観点から話をして欲しいという要請があった。「他人の情報を伝えるのが通信。情報編集責任を持って伝送するのが放送」とか「親潮・黒潮論」(潮流がぶつかる場所=融合現象は良い漁場だが、どちらから魚を獲りに行くかで漁法が違う)とかの話をした後、著作権問題に触れて以下のよう話をした。
(プレゼンテーション概要)
知的財産権については、私はプロではありません。まして、著作権保護技術についてそれほど詳しいわけでもありません。しかし、デジタル時代の著作権を巡り最近色々なことが語られているので、私なりに気になることにちょっと触れてみたいと思います。知財に詳しい方から、「それは誤解だ」とか「それは間違っている」ということがあれば教えていただきたいと思います。
1つは「権利は保護されるべきだ」ということです。それはなぜでしょう。これは私見ですが、やっぱり著作権というのは、創造性つまりオリジナリティというものが評価されるべきだから、ちゃんとそれを保護しましょうということが基本にあるのだと思います。多分、これは著作権の法律的な観点から言えば、著作者人格権につながる考え方だと思います。非常に優れたオリジナリティのあるものだから、それは他人があれこれ勝手に複製したり配ったり、まして編集改竄しちゃいけない、という意味で保護されるべきだというふうに思います。
こうした考え方は、当然のことですが技術的に記録 とか複製とか、頒布というものが容易に可能になったときから、この問題が強く意識されてきたのだろうと思っています。このあたりが、著作権という思想の誕生なのでしょうか。そこにデジタル技術という新しい環境が出てきて、いくらコピーしても劣化しないということになった場合に、オリジナリティ、創造性を持っている人の権利というのは、やっぱり保護されるべきだということが、改めて保護技術とも関係して出てきたということ、これが1点目です。
第2に、今度は権利を行使するということがあります。多分、これは著作財産権の話になると思います。対価を払うことでその権利を買い取る、あるいは、対価を受け取ることで権利を譲渡する。これは、そうすると、さっきの名誉とか創造性とは別に、経済行為つまり市場性の話になってくるでしょう。ただし、これは逆に、権利者の皆さんには少しきつい言い方をするかもしれないけれども、ほかの商品に比べて著作権(知的財産権)者の持つ権利というのは、非常に排他性が強い。あるいは、非常に独占性が強い。その意味で大変優位な立場にいるのではないだろうか。
例えば同じドラマでも、「これは誰々というタレントじゃなきゃ駄目だ」ということになったら、絶対にそのタレントって強いですよね。だけど、そこに、例えば通行人Aとか、ウェイトレスBとかそういう役で1回だけ、大変安いギャランティで出ている方は、別に権利者として強い立場にはいないと思います。だから、権利団体が成立するんだと思います。でも、ある特定の権利者は非常に強いですよ。つまり、それがないと成立しないという立場ですね。だから、こういうケースでは売り手市場型になりがちです。それが、果たして、正常な市場関係かどうかは別ですけど、ある意味では大変強い立場に立ち得る。
こうしたビジネスとしての権利というのは、音楽の世界で始まったように思います。ニューミュージックといわれた人たちが、それまでのブッキングビジネス(興行型)からライセンスビジネス(権利型)への転換を目指したあたりが、日本におけるその始まりでしょうか。そういう意味の権利行使という問題がある。
3番目は権利制限。著作物であっても、いろんなところである種の公共的な使用をされるときには権利が制限される。例えば、教科書に著作物が引用されるとなれば、これは公共性が高いでしょう。それから、(先ほど、IP再送信問題で触れたように)地上波の再送信。放送対象地域の中で地上波テレビがケーブル再送信されるときには、難視聴解消つまり「あまねく普及」という観点から、権利制限をされていた。
それから、公共的かどうかではなくて、非営利という考え方だと思いますが、私的録画。これは個人的に録画するということで、私的 録画という範囲内で権利許諾や報酬請求の対象にならない、そういうケース。まだあると思います。つまり、一定の条件の下では権利制限というのは起こり得ると言うか、権利制限することに合理性があるということでしょう。
こういう「保護」「行使」「制限」といったことが、コンテンツ市場の成長政策とどういう関係なのか。こういうことをきちんと考えないといけない。例えば、地上波テレビのIP再送信の著作権を、有線放送と同等にすべきだということが文化審議会でも示されている。そのほうがいいと私も思うけれども、それだけ切り出してデジタル時代の著作権問題みたいにというと、何か変ですよね。素人の私が考えても、このくらい論点があるにもかかわらず、IPのことだけ 切り出して、著作権がコンテンツ市場の成長を阻んでいるといった話は、やっぱり変だ。もうちょっと、著作権の在り方というのを基本的に考えるということがあってもいいと思います。
2.著作権保護の技術的手段
泥棒に入られたときに鍵をかけてなかったとしたら、鍵をかけなかった側に責任はあるか。泥棒に罰は科せられるべきだが、セキュリティーの自己責任も問われる。現代社会とはそういうものだ、というのがほぼ常識だろう。とはいえ、その施錠が善意の訪問者も締め出すほど堅固なもので、訪ねてきた人が必要な用事も果たせないとしたら、訪問者は不満を持つだろう。これはなかなか難問である。
コンテンツ保護技術の共通ルールは、DTCPルール(Digital Transmission Content Protection:松下、日立、東芝、ソニー、インテル(米)の五社が開発しDTLA社がライセンス供与しているデジタルコンテンツ保護技術)だという。これには3つのレベルがあった。(1)映画のDVDはコピーネバーである。これは、ハリウッドの大邸宅を守るために、メーカーが開発した堅固な施錠システムだ。これを日本のテレビ録画に適応するのは不適当だ。私的録画そのものの否定になる。では、(2)コピーフリーが良いかといえば、鍵をかけなくて盗難にあっても損害のないものならいざ知らず、権利保護システムとしては機能しない。そして、残された方法が(3)COGだった、というのがCOG選択の大まかな経緯だろう。
ところで、デジタル技術の特性の一つである「誤り訂正」機能は、コピー劣化の解消という技術課題をクリアーしたが、家庭用録画機能の向上と低廉化により私的録画行為における「プロ的制約=画質の保証」も解除されることになった。つまり「私的録画」という著作権上の限定的権利のその「限定性」は、アナログ時代に自動的に働いていた技術的限界(コピーによる劣化)により無作為に担保されていたが、デジタル技術はこれを無意味にしたのである。
したがって、問題は「私的録画という著作権上の特定された行為を前提にしたコンテンツ保護技術のあり方」であって、私的録画の無限定な自由の保障(=私的録画の廃棄)ではない。例えば素人発想で考えると、家庭で5回(枚数か世代かは別にして)以上のコピーをすることは先ずありえないし、仮にそれを10回に制限するとしても、技術的には可能ではないだろうか。COGに拘らなくても権利保護と視聴者の利便性の折り合いは可能のように思える。これは常識的な解決方法のように思うのだが、事態はどうもそういうふうには動いていかないようだ。
DTCPルールはパッケージを対象にしたものであり、ネットワークによる利用を考慮していなかった。そこで、IP時代に対応するためにDTCP-IPというルールの拡張が行われた。これは、家庭内IPネットワーク上では正規の認証関係が成立すればコンテンツの受け渡しは可能だが、家庭内ネットワークを越えたインターネット上では認証されないことにより不正利用が防止できるというものである(日本でも、ARIB=電波産業会で昨年9月に承認されている)。この仕組みを有効にするためには、COGでは不都合なためEPNが提案されたという。
さて、これまた素朴な疑問だが、(1)そもそもDTCP的発想には、テレビコンテンツの保護という意識が薄いのではないか、(2)「家庭内」というが、家庭という範囲はどのように限定されるのか、ということがどうにも気になる。アメリカがそうだから日本もこれで良いという。だが、これは変だ。
3.文化産業とグローバリズム
そもそも、文化一般もそうだが、特に放送というのは正にその国の文化に依拠しているという。同時に、その国固有の意識空間の形成に加担している。だからこそ、マスメディアとしてのテレビは、ナショナリティーとどのような関係に置かれるかについて、自覚的でなければならないのだ。このことはさておき、文化産業は夫々の国の条件で大きくその成立要件が異なる。もちろん、資本主義経済が「産業社会から知識社会へ」という大きなトレンドはまさに国際的変化であって、そのトレンドの外に身を置くことは出来ないが、その変化の流れをどのように受けいれるかは、夫々の文化産業を成り立たせている条件によるのである。
その意味で、著作権保護技術のあり方は、各国のコンテンツ市場の構造に応じるべきであって、ハリウッドのルールが無条件に前提になるべきではない。モノと文化の相違がそこにある。日米では、映画産業とテレビ産業の地位が大きく異なる。そもそもそこに同一ルールを何のバリュエーションも考慮せずに適応するというのは無理なのだ。このことについては、放送事業者としても一層の検討が必要であったと思うし、そのことがCOG選択の経緯として不透明だという批判につながる。しかし同時に、録画可能な機器の製造販売において、技術開発として可能であればどのような商品やサービスが提供されるとしても、それは当然ということだろうか。少なくとも、企業行動が社会的なものである以上、その行為がどのような影響をあたえるかについて、より多角的な視野に立つべきなのだ。
著作権(知的財産権)を評価することが、知識社会とコンテンツ産業の前提であるとすれば、そしてそれらは夫々の国の固有の条件によって成立しているとすれば、その国の著作権保護ルールがあって然るべきであり、それを国際的に(例えばWTOなどで)認知されることがグローバリズムというものではないだろうか。フランスでは、6月にダウンロード法が可決され、配信側のDRM支配権維持が認められるとともに、私的複製の範囲、DVDの複製枚数を検討する審議会が設置されるというニュースもある。
著作権とは何か、著作権保護とは何か、著作物の享受とは何か、それらは技術の進歩とどのような関係にあるのか、ソフトパワーの強化と著作権の国際的あり方はどうあるべきか、などなど、頭の整理をするには良い機会だ。そして、敢えていうならば、どのような創造的天才の表現作品であっても、それは人類の叡智の歴史の集積であり、人類共有の財産であるだろう。公共財としての知的財産の問題をどう考えるべきか…コンテンツ問題の根は深い。
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