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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No58.「続・日高方式の現場で考えたこと/デジタル革命の通奏低音」 2006.10.1
 
阿寒湖畔局/ランドクルーザーでは登れない急坂。傾斜は約30度。
 前号の訂正
   *   阿寒中継局で送信している民放局は5局ではなく4局でした。
   * 阿寒中継局の放送波受信は送信施設と同一地点でした。阿寒湖畔局などでは受信点が「峠の反対側」にあります。
   * 阿寒中継局はコンクリート基礎で、小屋はGボックスという鋼板製です。
   * 前号本文は訂正済みです。

  「旅する巨人宮本常一・にっぽんの記憶」(読売新聞西部本社編・みすのわ出版)を読んだ。民俗学者の宮本常一が昭和20年代後半から50年代前半まで、即ち戦後の復興期から高度成長期にかけて訪ね歩いた、西日本の離島や山間地の集落などの調査地で記録した写真をもとに、記者たちがその土地を訪れ写真に写っている人や切り取られた風景を探し、夫々の地の変化を確かめた記録である。宮本は「生涯のうち4000日を旅に暮らし」「300を超える地域を訪ね」「街角、橋、看板、洗濯物、とあらゆるものにレンズを向け…戦後だけで約10万枚」の写真を残した、とある。宮本は各地で、成長期に入った日本経済が、共同体としての村や、地域経済の中で成立している町に与える変化の予兆を読み取っている。そして、多くの場所でその予兆が、地域の過疎と衰退という現実になっていることを、記者たちは確認することになる。
  この半世紀の間に何が変わったのか、私たちは何を手にして、そしてその代わりに何を失ったのか。変化は不可避であるとして、失われつつあるものを記録し、その意味を問うことは、不確かな現在とさらに不確定な未来のために必要なのだ…と、この本の前に読んだ「レビストロース講義・現代社会と人類学」(平凡社ライブラリー)でも語られている。
  さて、この半世紀はテレビの歴史でもある。かつて、ニュース映画で「山の村にテレビがやって来た」というタイトルの映像を見た記憶がある。山村の小学校で漸くテレビが見られるようになったというのだから、昭和40年前後のことだろうか。NHKの技術者たちは、文字通り公共放送の責務として「あまねく普及」に努めていたのだ。前回書いた北海道の条件不利地域の中継設備も、先行的にNHKが設置したものが多いという。「こういうところは確かにNHKというのは大したもんだ」と素直に思ったのだった。
  テレビによって伝えられた情報は、村にどのような変化をあたえたのだろうか。峠の向こうの村や町の情報さえ頻繁に接することがなかった地域に、世界中から映像が飛び込み、華やかな娯楽と購買意欲をそそるCMが一挙に流れ込んだことと、地方からの集団就職による都市の労働力確保は、ほぼ同時並行的に進行した。そして今、テレビは過疎の村のほとんど唯一の情報手段になろうとしている。情報と情報手段の多様化から置かれて行くのは、やはり辺地なのである。失われつつあるものを記録しその意味を問うことは、テレビ自身への問いかけと重なっている。その問いは、国家とメディアの関係、産業政策と公共政策の関係、広告媒体の存在理由、商品としてのコンテンツとその市場のあり方などなど、情報のデジタル化とネット社会の成熟という状況の中で、テレビが向き合わなければならない多くの問いかけの「通奏低音」になっている。
  そう考えると、各局が進めている番組のアーカイブ化は、過去番組の商品化を第一義としているが、同時にそこにテレビ民俗学?としての意味を重ね合わせてみる必要があるのではないだろうか。

*.9月に読んだ本
「レビストロース講義・現代社会と人類学」(平凡社ライブラリー)
「大地の咆哮・上海総領事が見た中国」(杉本信行・PHP研究所)
「憲法九条を世界遺産に」(大田光 中沢新一・集英社文庫)
「旅する巨人宮本常一・にっぽんの記憶」(読売新聞西部本社編・みずのわ出版)
「資本主義から市民主義へ」(岩井克人 三浦雅士・新書館)



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