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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No60.「全体最適・部分最適」 2006.11.1
 
 以下は、「地デジ」のことを想定して書いている。
 ある官僚と話をしていたら、「事業者は部分最適を求め、国は全体最適を考える。事業者は政策を慮って主張に歯止めをかける必要はない。“エゴ”から部分最適は生まれる。国はそれを受け止めて、全体最適としての政策を追求する」と言う。「なるほどもっともだ」とも思うが、「だが待てよ」とも思う。
  事業者が「部分最適」を求めるのは当然で、そうでなければ経営は成り立たない。「事業者は役所に対して遠慮なくエゴを主張すべきだ」というのは、寧ろ従来の官と民の不透明な関係のままでは、今後の政策展開にマイナスに作用するという意味で分かり易い発言だ。しかし、民=事業者は「部分最適」しか考えないのかといえば、そうではない。「会社は社会のもの」(岩井克人)風に言えば、事業者も国とは違うベクトルとはいえ、「部分最適」を超えた対応が必要なのである。それも含めて“エゴ”であり”部分”であるといえば確かにそうなのだが、その目線の中には、政策としての「全体最適」も入っているのである。
  一方、国が「全体最適」を考えるのも、これまた当たり前の話であって、問題は果たしてその政策が「全体最適」であるかどうかだ(これも当たり前だ)。この場合、全体とは何だろうか。国益という答えがあるとして、それは産業振興あるいは国民(消費者あるいは市民)による利益の享受とは別の判断基準なのだろうか。そして、そこでは「国」と「公」と「私」の関係が問われることになる。「国」と「公」とは概念が違う。それは権力との関係の問題である。だが、どちらも事業者や消費者の利益の総和ではない。「公」と「私」との関係は、共同性における対概念である。したがって、「私」は事業者や消費者の個別具体性を意味しない。
  冒頭の会話では、「最適」とは政策の起承転結という時系列で判断されるという発言もあって、これもまた至極真っ当な考え方なのだが、政策の提起から結果にいたる夫々の根拠の客観性はいかに担保されるのだろうか。形式としては(いうまでもなく形式は重要である)それは議会制民主主義では国会審議ということになるのだろが、日々流動する事象に対応するために、全て国会審議というわけには行かない。そこが行政の存在理由であろう。そうだとすると、いわゆる審議会、懇談会、検討委員会、などなどは、起承転結を担保するために設置されているということになる。
  こうした場に出て行くときに、「事業者エゴだけ言ってくれば、後は国が『全体最適』を考えてくれるだろう」というわけにいかない。それで済めば楽なものだ。私益の追及が予定調和的に公の利益をもたらすというものではない。エゴにも客観性や説得性が必要なのである。そうでなければ議論が成立しない。まして、放送事業は免許事業であると同時に私企業であり、かつジャーナリズム機能を事業の存在理由としている。国の「全体最適」とは自ずから異なるが、公共圏の形成あるいは意識空間の成立ということに向き合うことから離れるわけにはいかない。その意味で、放送事業には、「部分最適」を超えた論理が必要なのであり、そのレベルで国の言う「全体最適」に対峙しなければならないのである。放送局経営と放送行政の難しさがそこにある。その上で、前回触れた「人々の欲する情報を提供する」という構造に対する、内在的批判も求められている。
  ここまで書いてきたことは、「部分最適・全体最適」論の批判ではなく、こうした官の意識を受け止めつつ、どのような論理展開をするべきかを考えるための提起と受け止めたい。そのためにも、「部分最適」を越える部分について、私たちはどのような論理を構築しつつ、そこから日々のメディア行為を捉え返すことが必要なのである。「メディアは何をしてきたか」ではなく、「メディアは何をしてこなかったか」という問いかけを、自らに課すべきなのだ。デジタル状況は、メディアとしてのテレビジョンのあり方そのものを晒そうとしている。だからこそ、そのような問いがアクチュアルな意味を持つのである。
  それにしても、地デジは今起承転結のどの段階に差し掛かっているのだろうか。流石に「起」は過ぎたと思うのだが。



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