1. |
戦後の70年代までは何だったのか、という評価が必要だ。
彼らが、そこにとらわれない(乃至は否定的である)とすれば、それゆえにこそこれは必要だ。 |
2. |
その前提として敗戦の思想的総括があるべきだ。そうでないと、この国のアイデンティティーの不在を丸ごと背負ってしまった彼らは、容易にナショナなものに回帰するであろう。 |
3. |
この二つを曖昧にしておくと、技術信仰による経済主義と「戦後清算志向」がない交ぜのまま進行するだろう。 |
4. |
こうした視点を提示(例えば「自由と管理」についての問題提起)しようとしているのも、80年代を思想形成の過程として経験した彼等の中にあるのだから、そうした作業に注目するべきだ。 |
5. |
以上をテレビの問題に引付ければ、戦後過程におけるテレビは政治的及び社会・文化的に何をしてきたかを考えることである。 |
6. |
その上で、80年代という構造的転換期を席巻し、そしていまもその延長にある“フジテレビ化”現象をどう受け止めるか、が問われる。 |
7. |
一言で言えば、テレビはポストモダン現象と添い寝をしたが、それはいったい何んだったのかということだ。 |
8. |
ここを抑えないと「融合現象」に対応できない。マスメディアは民主主義社会のシステムを構成する、ということだけでは有効なカウンターになりえない。カウンターとは、否定ではなく有効な反・提言である。 |
9. |
その意味で、情報通信の経済学ではなく、政治学が必要なのである。 |
10. |
デジタル時代のテレビの在り方を考えるということは、このような幅と深さが必要だということなのだ。「融合現象」は進行する。テレビジョンはそれにどう対応するか。それは、総体としてのテレビの思想の問題なのだ。 |