
No68.「続・NHKのことなど」 |
2007.2.15 |
メディアノートNo.68でNHKのことを書いた。その中で、「証言による現代史」を例に挙げて、「こうした企画がNHKの再建?課題として経営的にどう位置づけられているのか(つまり「NHKらしい良い番組だ」というのではなく)は、本質的問題なのだと思う」と書いた。だが、これは些か問題のある言い方だ。何故ならば、経営が番組の評価をするというのは、極めて危険なことだからだ。
経営は編成にどう関わるべきなのか。どの企業でも経営が自社の製造や販売に指示しすることは当たり前であろう。組織として、その指示の妥当性を検証する機能を持っているかどうかが、その企業の活力を示すメルクマールでもある。
しかし、放送局経営において編成計画や予算案を経営が判断するのは当然であるとして、個々の番組評価やニュースの伝え方について良し悪しの評価をすることは抑制的でなければならない。制作者(ディレクターや記者)はその情報について、経営判断ではなく、メディアに身を置く者としての責任を背負いつつ、視聴者と向き合うことにその存在理由があるからだ。駆け出しのディレクターのとき、先輩から「番組では、お前は社長より偉いと思え」といわれたことがある。つまり、視聴者に向き合っているのはお前だということだ。そのとき、番組(メッセージ)の重みを考えさせられた。
いうまでもなく、コンプライアンスの観点や放送局の信頼に関わる場合は、経営は明確な判断と措置をとる責任があり、それを現場に求めなければならない。ここに、(1)放送局の経営、(2)組織としてのメディア、そして(3)メディアに関わる個人の三者の間の緊張関係が成立し、そのことで放送局は放送局として自立することが可能になるのである。
NHKが、ある番組(例えば「証言による現代史」)を経営としてどう位置づけるかは、番組評価の問題ではない。それは「NHKがとういう放送局になりたいか」を経営として考えるときに、NHK全体の方向付け(あるいは経営哲学というべきか)として、どのような経営資源を投下し、それがメディア価値としてどういう意味を持つか、それはこれまでのNHKと同じなのか違うのか、今それを考える必要があるということなのだ。玉突きで言えばスリークッションくらい難しい問題なのだが、それをNHKが考えなくて、一体誰が考えるというのだろう。
そして、私たちは私たちにとっての放送と放送局のあり方を考え抜かなければならないのである。
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