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今年は桜の開花が早いと言う。そうだろう、これだけ暖かい冬だったんだから。
桜の時期になると思い出す歌がある。
願はくは花の下にて我死なん、その如月の望月のころ
良く知られた歌だ。明るさと華やかさの中に虚無がある。
そして、もう一つ。
春三月 縊り残され 花に舞う
これは凄い。この凄絶さはなんということだろう。
幸徳秋水が大逆事件で刑死したときの大杉栄の句だと言う。
春は、生命の息吹がよみがえる季節だというが、しかしそうだからこそ死を考えるときでもあるのだろ。生は限られたものであり、それゆえに虚しいということだろうか。
入学式も、卒業式も春が良い。秋学期で始まる国が多いと言うが、こんなことに国際標準はいらない…というのは余談だが。
9年間続けた民放連「地上デジタル放送特別委員会・デジタルテレビ専門部会」の部会長を辞めることにした。長すぎたし疲れた。
会議の「長」というものは、その日の会議で何を決めるのか、そのテーマを認識し、方向付けを想定しておかなければならない。何かを決めないとすれば、何をどこまで議論するのかということも承知して進行するのが仕事である。とはいえ、「長」が事前に方向を結論として参加者に示してはいけない。だから、想定しない結果になることもある。予定調和はありえない。基本と臨機が「長」には必要なのである。最近、メンバーの意見に対して即座に反応(「そうじゃなくて、こうでしょ」みたいに)をしてしまう傾向が強くなった。これは良くない。「長」が言ってしまえば、自由な討議を阻害する。歳なのかなァ…とも思う。そうなれば、辞めたほうが良い。
1997年に「デジ懇」といわれる郵政省の懇談会が設置され、翌年報告書が提出された。地上放送のデジタル化を具体的な政策課題とした懇談会で、ここから地デジは始まった。それから10年が経つ。デジタルチャンネルプラン・民放連の「デジタル化不可避宣言」・アナログチャンネル変更対策・経費積算とその財源・2011年終了の制度化・「共同検討委員会」の設置と「全国協議会」への改組・アナ変規模の見直しとSTB配布案・東名阪の地デジ開始・中継局ロードマップ・公的支援と補完措置・IPマルチキャストと著作権・情通審と「あり懇(竹中懇)」・全国親局開始・ケーブル区域外再送信・1%問題と予算措置・SFN難視とデジデジ混信・アナログ終了手順とセイフティーネット・受信機普及とPR…etc,etc,
IT社会の中でテレビがメディアとしてどういうポジションを占め、そしてテレビ産業がどう変化していくかといことを思いつつ、地デジのあまりにも具体的な作業を議論してきた。まことにデジタルとは、「学んで思はざればすなわち暗く、思うて学ばざればすなわち危うし」(思うは「想う」、暗いは「昏い」または「冥い」かナ)の世界だと思う。もともと学ぶことに怠惰なのだから、これから想ってばかりいてはますます危うくなるかもしれない。だから、デジタルの現場学習(政策論議も現場である)の機会は減るだろうが、メディア論の基礎を少し「学んで」みたい。例えば、電波技術の歴史、広告の基本、著作権とは何か、など。そこから、デジタル時代のテレビジョンについて考えてみたいのだ。
来年の春は、どういう春になっているのだろう。
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