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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No71.「 通信の秘密 」 2007.4.1

  「盗聴・2.26事件」(中田整一/文藝春秋社)を読んだ。中田さんは元NHKのドキュメンタリー番組のディレクターで、1979年に「戒厳指令『交信ヲ傍受セヨ』2.26事件秘録」を制作している。残念ながら、その放送は見ていない。このドキュメンタリーは、2.26事件の反乱軍及びその同調者と思われる人々相互の、あるいは外部の関係者との間の電話を戒厳司令部が盗聴し、それを記録した20枚の録音盤が発見されたことから企画されたものだと言う。「盗聴・2.26事件」は、その放送後に連絡があった当事者や関係者を取材し、2.26事件がどのような権力関係の中で発生し処理されたかを、テレビ的手法をとり鋳込みつつ構成されている。
 大変面白かった。北一輝、西田税、安藤大尉などの声が残されていることだけでも、嫌でも興味がそそられる。既に、書評欄などで取り上げられているので、内容についてはこれ以上触れないが、盗聴という行為の判断と指示、裁判時点での法的根拠についての論理、当時の録音技術、保管と発見の経緯、録音再生の苦労、など事件そのものとは別の要素も書き込まれていて興味深かった。
 だが、それよりも今の時点で何を考えるかと言えば、盗聴という「通信の秘密」を犯す行為を、権力が行ったということの意味である。戒厳令下という非常事態であるから盗聴を実行しえたということになるのだが、その合法性について政府や軍部は周到に論理構築をしている。つまり、盗聴・傍受と言う行為は大日本帝国憲法下でも違法であり、「通信の秘密」という原理は存在していた。

[大日本帝国憲法]
第二十六條   日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外信書ノ祕密ヲ侵サルヽコトナシ
第二十九條 日本臣民ハ法律ノ範圍内ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス
第三十一條 本章ニ掲ケタル條規ハ戰時又ハ國家事變ノ場合ニ於テ天皇大權ノ施行ヲ妨クル
コトナシ

[戒厳令](明治15年太政官布告第36号)
第十四条 戒厳地境内於テハ司令官左ニ記列ノ諸件ヲ執行スルノ権ヲ有ス 但其執行ヨリ生スル損害ハ要償スルコトヲ得ス
     第四 郵便電報ヲ開緘シ出入ノ船舶及ヒ諸物品ヲ検査シ並ニ陸海通路ヲ停止スルコト

 通信の遮断による叛乱部隊の孤立ではなく、盗聴による関係者のあぶり出しという選択をしたところに、情報というものについての権力の敏感さを読み取るべきだろう。マスメディアに対しては、情報を統制・管理し、通信に対しては監視・捕捉するという権力行為は、印刷と郵便が成立して以来、常に行われてきたと考えてよいのであって、それは電子メディアの現代においても本質的に変わることはないのではないかと疑ったほうが良い。だからこそ、「表現の自由」と「通信の秘密」という近代法で規定されている情報原理は、対権力との関係を基本とするというところに意味があると言えるだろう。デジタルメディアによる情報量の飛躍的増大と情報処理の簡易化は、もっぱらポスト工業社会の経済活動分野としてその成長が国家的課題とされているのだが、こうした情報の経済学的発想とともに、情報と権力という政治学的認識が必要なのである。こうした観点が欠落したまま情報産業政策が語られるのは、情報の本質を見失ことになるであろう。
 放送と通信の融合が政策課題とされていて、それはまさに産業論としてはそのとおりであるとして、[1対n]のマスメディアと[1対1]の通信の間に登場しつつある[(1対1)×n]という情報行為にいかなる規制原理を適用するかは、極めてデリケートな問題なのである。そしてまた、デジタル技術とは情報の自由化であると同時に、情報発信・情報受信の捕捉を確実に出来るものなのだ。民間の情報ビジネスのデータは、たちまち情報管理のデータになるのである。あるいは、権力によるハッキングという想定もありえないわけではない。「表現の自由」と「通信の秘密」という情報原理は、近現代史の中で規制・統制・宣伝・監視・管理など様々な関係を経験してきたが、今また新たな局面を迎えようとしている。
 それにしても、権力による盗聴という行為が、2.26事件という昭和史の核心部分を明らかにするという逆説的構造をどう考えたら良いのだろう。おそらく抹殺されたりあるいは喪失してしまった様々な記録があったのであろうが、そこに何が記録されていたかは想像を超える。いまだ発掘されていない記録が一つでも現れることを期待するしかないのである。



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