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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No77.「 シンポジゥム<放送が危ない!>」 2007.7.1

  「放送が危ない!放送法に関するシンポジゥム」(6/21.主催日本弁護士連合会)を聞いてきた。テレビ取材もあり、翌日の新聞に記事が掲載された。企画としては成功といって良い。竹中大臣の私的諮問機関である「通信・放送の在り方に関する懇談会」(「在り懇」とも呼ばれる)が提言した「(通信と放送の)総合的法体系」が、「政府与党合意」に盛り込まれ、それを受けた検討委員会の中間とりまとめが先日公表されたことも、タイミングとして良かったのだろう。シンポジゥムを聞きながらいま、メディアの中にいる者は何を考えるべきなのか、幾つかのことが頭に浮かんだ。それをノートしておこう。これまで、このメディアノートに書いたこととダブルが、あらためて整理する意味もそれなりにあると思う。
 パネルディスカッションそのものは、全体に論点が散漫で踏み込みの浅い印象だった。パネルという形式はしばしばそうなりがちなのだから、仕方がないのかもしれない。パネラーの発言で気になったのは、岸氏(元竹中総務大臣秘書官)が「<あるある>に端を発した『再発防止条項』は、表現の自由に関わるというような問題ではなく、もっと単純に考えればいい。視聴者国民が不安がっているときに、政治が何もしないわけにはいかない。ちょうど国会か開会中だったので、法律事項にしただけだ」というのがあった。何かに対するエクスキューズだとしてもこのズレは問題だ。それに比べれば、二木氏(日刊ゲンダイ編集長)の「テレビはそもそも何らかのいかがわしさがあることにメディアとしての魅力があるのであり、だからこそ権力に揚げ足を取られないように気をつけよ」という、それこそ単純な指摘のほうにリアリティーがある。但し、[権力には潜在的に揚げ足取りの欲求があり、大衆は何であれ揚げ足取りを喜ぶのであって、それを増幅させるのもまたメディアである]という三者の通底関係が問題なのだが、議論はそこまでいかなかった。それらも含めて、論点は五つある。
   
(1) メディア関連法の現状
  最近のメディア規制を含む法律は相当数に上る。例えば、有事法制に関する「指定機関」関係、個人情報保護法、住民基本台帳関係、国民投票法、などなど。こうした法律が短期間に成立してきている状況の中に放送法改正や「総合的法体系」(中間取りまとめ)を置いてみれば、立法や行政が「言論表現の自由を尊重する」といってみても俄かには信じがたい。この一連の法制化は、メディア規制という自覚された意図で一貫しているかと言えば、そうではないかもしれない。しかし、個別の立法趣旨が何処にあるかということよりも、状況は総体として明らかにメディア規制のベクトルにある。シンポジゥムの冒頭の山田氏(専修大学)のレポートは、そのことを語っている( それにも拘らず、パネルの進行役としての山田氏はここに踏みこまなかった)。敢えて短絡的に言えば、「戦後レジームからの脱却」とはこういうことなのだ。「<あるある>と放送法問題は単純に考えよう」と発言した岸氏が、同時に「放送を産業として考えるべきだ」いう認識を示したことは、こうしたベクトルと無関係ではない。情報分野をポスト工業社会の政策の中核に位置づけようとする流れと、メディア規制とは絡み合いながら状況を形成している。
   
(2) 何故放送事業者は「放送法」問題をメディアで取り上げないか
  パネラーの岩崎氏(「放送レポート」編集長)は「放送法問題を何故放送メディアは取り上げないのか」と発言していた。自らに関わる問題をメディアが取り上げることには、なかなかナーバスなものがある。しかし、それにしてもメディア自身の対応は確かに鈍い。率直に言えば、業界の中に身を置きつつそう感じるのは、居心地の悪いものである。では何故そうなのか。
  日本の放送行政は周波数管理を基本としているのであって、放送法3条の規定も「精神的なもの」という定説を山田氏も紹介していた。一方、デジタル技術とインターネットの登場による通信・放送分野の急激な構造変化に対応する政策を、総務省は関係業界と「協議会」「審議会」「委員会」などの場で合意形成を図りつつ立案・策定している。その過程の様々な局面で、行政と事業者は相当厳しい対峙を重ねているが、全体としてどこで了解点に至るかということが意識されていないかといえば、それを否定することは出来ないだろう。政策に関与する現実的選択とはそういうことなのだ。こうした状況で、官庁と放送事業者の間で「言論表現」という原則的問題についての緊張関係を如何に明確にするかが問われることになる。かつて、旧郵政省幹部から「現行放送法制度下では放送法3条が「精神的規定」だからこそ、行政が緩衝地帯となって放送への政治介入を防ぐ構造になっている」という話を聞いたことがある。官僚の知恵とはなかなか優れていると思ったものだった。
 こうした政策策定構造と情報法の関係について、いわゆる「融合論」的発想からは、「規制と振興は分離すべし」という論理展開がありうると考えられるが、シンポジゥムではそうした発言はなかった。もちろん「融合論」のいう規制とは、経済規制(市場形成のルール)のことであって、情報規制ではない。これも議論がしはしば混乱するもとなのだが、経済的あるいは産業論的規制とメディア論的規制がすれ違うことがある。しかし、この点を論点として明示すれば、情報担当機関(いわゆるFCC型)の独立化という議論の展開もありえたように思う。勿論、独立委員会型になれば万事解決ということではない。しかし、「何故万事解決ではないのか」ということも含めて、この論点は大事なのではないだろうか。
   
(3) 市民社会と国民国家
 「言論表現の自由」は市民社会の成立過程で登場した原理であると考えられる。先行する権力への異議申し立てを共通の意思表示として行うメディア機能は、近代社会を構成する基本要素であって、だからこそ近代憲法に明記されることになる。しかし、近代社会は同時に国民国家として形成されるのであって、そのときマスメディアは「想像の共同体」でもある国家としての共通の意識空間を構成するという、もう一つの機能を担うことになる。この二重構造をどう自覚 (自らの客体化)するかが、マスメディアに問われているのである。「言論表現の自由」と「共通の意識空間の構成=秩序維持」を法的表現として一元化するという危うさを承知することが、現在のメディア規制を考察の始点である。特に、電波メディアや電気通信による情報流通は、少なくともインフラ規制においては国家による管理から自由でないからこそ、こうした二重構造をメディア経営の原点として認識されなければならないと考えられる。まして、「より多くの人に見て頂く」ことを事業とする放送は、そこに「大衆のまなざしの集約」*註という傾向が生まれるのだ。市民・国民・大衆という、夫々が現代社会の構成要素である概念の、どれと向き合って「表現の自由」「秩序維持」「スキャンダル」などの情報行為を捉えるか、それが曖昧なまま議論が進むことで論点が不明確になり、全体が不透明のままメディア規制の制度化だけが進んでいく。それが現在だろう。
 註:柏木博「肖像の中の権力」
   
(4) 信用
  情報と金融が類似の仕組みを持つということを(メディアノートでも)何度か書いた。「みんなが信用するから、自分も信用する」*註という関係は、大衆社会の基本構造だ。情報についても同じ関係が成立しているのだが、さらにその上に、デジタル革命は膨大な量の情報を日々排出する状況を作り出し、情報インフレ現象が「揚げ足取りの通底化」を招いている。こうした状態の極限として「情報恐慌(誰も情報を信用しなくなることで情報システムが崩壊する)」が起こることも想定しないわけにはいかない。だからこそ、メディアの公共性とは何かがあらためて問われる。放送は免許事業だから公共性があるのではなく、それは日々の放送の行為(経営と編成)の積み重ねによって構築される。したがって、「不祥事の再発防止」は、モラルの問題というよりスキルの継承とモチベーションの形成(そのための環境)によらなければならない。
 さて、そうであるとして「みんなが信用するから、自分も信用する」という構造においてメディアは何をするべきか。そこにこそ、事実と事実の持つ意味の多様性が必要なのであり、メディアは「その中の一つの立場として人々に向き合うことを選択している」 という自覚(メッセージ性)が求められるのだ。行政と事業者の間に緊張感が問われると先に書いたが、メディアと視聴者の間にも緊張感が必要なのである。 こうした、「メディア論的」認識(とでもいって良いのだろうか)が、産業論的あるいは制度論的政策に対して、メディアが立つべき原点なのである。かつて、「メディア論から政策は生まれないが、メディア論で政策を撃つことは出来る。そこに生まれる緊張がより高度な政策を産む」と書いたことがある。*註。メディアが自らを客体として捉え、そこから論理構築をすることが個々のメディア規制法や情報産業市場政策に対応する基本なのである。
 註:岩井克人「資本主義から市民主義へ」他
 註:メディアノートNo41(2006.1.15.)[ここをクリック]
   
(5) 総合的法体系
 総合的法体系の骨格として示された「情報通信法」(仮称)の中間取りまとめの重要なポイントは、(1)コンテンツ規制と免許制度、(2)プラットホームの制度化、(3)「公然通信(ネット上で公開される通信情報)」の規制の3点であろう。それぞれにどのような問題があるかについては、別途検証することとするが、特に(1)と(3)は「表現の自由」との関係で極めてナーバスな問題だ。
 何故「総合的法体系」が提起されたかといえば、その提起の場であった「在り懇」の発想に「現在の情報通信関連法が複雑であり、それが日本の情報市場発展の阻害要因である」という認識があったからだ。つまり、これは産業論的アプローチによる制度化の作業なのである。もちろん、どの分野にも然るべき産業政策は必要なのであるから、それはそれで良い。 しかし、コンテンツ規制を内包するということはメディア法であるということであり、そうだとすれば「表現の自由」と「通信の秘密」という情報規制の原点を(憲法との関係で)どう担保するかという考え方が、まず明示されなければならない。「それは当然です」というのは「明示」ではない。長さと重さの単位が違うように、同じ物差しで計ることが無理なものが世の中にはあるのである。このことの重要性は意識しすぎるということはない。
 そしてもう一つ。「生活の幅は政治の幅より広いのに、何故政治が生活を支配するのかといえば、そこに権力が存在するからだ」*註という箴言があるが、表現行為もまた国家の幅より広いのであって、ポスト工業社会の産業育成が国家的課題であるとしても、その幅に表現を閉じ込めてはならないし、またそれは不可能でもある。それが私権というものではなかろうか。放送における表現の自由の前提は、私権としての表現行為が成立していなければならないと思うのだ。法学の基礎的素養に乏しいので、私権という概念の認識が違っているかもしれないが、表現という行為は基本的人権というより自然権的な、あるいは人間の存在理由に関わる何かであるように思われる。
 直感的にいえば、あるいは(1)で述べた「メディア規制の力学」との関係で言えば、総合的法体系には相当に用心深く向き合う必要があるであろう。それは、提案者の主観の問題(「そんなことは考えていない」と本当に真面目に思っていても、ということだ)ではないのである。
 註:埴谷雄高「幻視の中の政治」




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