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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No78.「日本の近代・テレビの現在」 2007.7.15

 「日本の200年・上下」(アンドルー・ゴードン/みすず書房)を読んだ。外国人が書いた日本の歴史を読むと言うのは不思議な感じがしないでもなかったが、日本人の研究者が書いた欧米の歴史書を僕たちは随分読んでいるのだから、特別のことではないともいえる。
 読み終えて、なかなか面白かった。何が面白かったかと言えば、まず200年という時間単位を設定したことだ。近代の始点ではなく、近世の終点から日本近代史の考察を始めることで、現在までの変化の連続性が読み取れる。もちろん、こうした時間のとり方はそれほど異例の手法ではないだろうが、少なくともこの本ではそれが効果的だと思った。次に、これも当然のことなのだが、日本の歴史家が同時代を描けば当然のこととして滲み出る事件事象への思い入れがない。同時代史といえども「学としての歴史」では思い入れは禁じ手であるべきだとは言え、そこにはやはり目線の角度、対象の重み付け、などがあるのであって、同時代史の面白さはそこにあるともいえるし、歴史と文学の交点もそこで成立する。この本には、そうした陰影はなくサラサラと読める。もちろん、日本の近代化の要因について膨大な資料の裏づけから様々な関係を読み取っている。しかし、例えば「昭和史探索」(全6巻/ちくま文庫)の時間の濃さのようなものはない。なくて当たり前であり、逆にそこから世界史の中に置かれた日本を読むことが出来るのだ。そして、そのようにして読み終えて感じるのは、いまこの国は<近代化>という200年の変動の延長上にいるのであって、現実はとても不安定な状態なのだということだ。グローバル化や格差社会という現象は、そうした構造的流動性から生まれている。「戦後レジーム」についての批評軸を形成するためには、こうした時間感覚が必要なのである。
 僕たちは、他者の視線で捉えられ自国の存在をどれほど知っているのだろうか。しばしば「フジヤマ・ゲイシャ」的評判に憮然としたことはあるだろうし、そしてそこから「正しい」日本認識に努めるべく海外プロモーションが鼓舞されてきた。あるいは、「反日教育」への対抗的な歴史教育を巡る議論は現在進行形である。しかし、どれほど客観的に自らを知りうるかということは、次に何を選択するかというためには欠かせない認識方法なのだ。先日、NHK-BSで姜尚中さんが夏目漱石について、漱石の苦悩は日本近代を生きることの苦悩だったと語っていたが、自己をあるいは自国を客観的に認識することはそれほど難しい。客観的とは、価値判断の停止ではなく、複数の判断が存在することを承知することだ。自己のあるいは自国の密度の濃い時間と、他者の視線で構成される世界史における時間との双方を知ることが、僕たちの現在位置を測定するためには不可欠なのだ。
 テレビもまたそうであって、日々のメディア行為の蓄積とその反芻を重ねつつ、急速に変化するメディア環境の中でテレビジョンの可能性と不可能性を、他のメディアとの関係や権力との関係、そして人々との関係を捉え返す中で認識しなければならないのである。テレビジョンは行為と論理をともに追求することで、同時代的に成立しうる。「地上波テレビは基幹放送メディアだ」(ということは否定しないが)といっていれば済むというものではない。何故ならば、テレビジョンとは「経済と政治と社会と技術による総体的な存在(一つの全体)」であるからだ。それ故にこそ、現在テレビジョンについて考えることが重要なのであり、また面白いのである。
 
 さて、いま「16世紀文化革命」上下(山本義隆/みすず書房)を読み始めた。ルネッサンスと近接して、しかし違うベクトルによる近代の始まりについて、今度は、歴史はどんな風な姿を見せてくれるのだろう。楽しみだ。



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