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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No79.「総合的法体系・反省」 2007.8.1

 「反対」ではなく「反省」である。
 「通信・放送の総合的法体系」の中間取りまとめについてのシンポジゥムにパネラーとして参加した。いわゆる「レイヤー化法制」を巡る議論だ。他のパネラーは、総務省の担当課長、「レイヤー化と総合的法体系」を提起したいわゆる「竹中懇」の主査、その時の竹中大臣の秘書官、そして検討委員会の委員と言う顔ぶれで、三人は現総務大臣のタスクフォースメンバーとして政策の進捗状況のフォローする立場だ。放送事業者は(1)コンテンツ・プラットフォーム・インフラという三層規制は現行地上放送の解体につながりかねない、(2)コンテンツ規制を分離することは国による情報規制の強化になる、という観点から反対の意思表示をしている。主催の慶応大学の金正勳サンから参加の要請があったときに、その話を放送関係者にしたら、「やめた方がいい、バランスが悪すぎる」という人が多かった。当日も、何人かの人に「よく出てきましたね」といわれた。金さんもいわゆる「融合論」的立場の人である。ただ、金さんの講座で何度か話をする機会があったので、その考え方と人柄を知っていたので、引き受けることにしたのだった。「バランスが悪すぎる、といわれてます」とメールで金さん送ったら「あなたが出ないと、もっとバランスが悪くなります」と返信が来た。こうなれば出るしかない。結構放送事業者の傍聴者もいたから、客寄せ効果になったのかもしれない。 さて、「反省」とはパネルのことであり、それは三点ある。

(1)切り口
 次図によりメディアの側から見た「総合的法体系」の考え方から抜け落ちる論点を指摘した(3枚目は図示せず口頭で説明)。図を見れば、多少メディアに関心のある人それなりに分かるだろう。(ココをクリック。図にリンクします)

 レイヤー型法体系に「反対!」というだけなら、公的見解として「政治的」に言えばよいのである。「中間取りまとめ」のメディア側の読み方をメディア論的に言っておくことに本質的な意味があると考えたのだ。だが、この方法はほとんど無駄だったようだ。「何を言っているのか分からない」という反応に見られるように、ほとんど通じなかったといってよい(失礼ながら、司会の金さんも理解していただけたとは思えなかった)。大学のシンポジゥムでこのレベルの議論が成立しないのはなんとも虚しいのたが、そもそもこうした切り口で論点を深めようというのが無理だったのだろう。後半の議論では、このズレを意識しない発言に対しては、個別の反論はやめた(後になって、やっぱり個別具体的な反論をしておくべきだったと思っている。公開である以上反論しないことはその発言を認めることになり、放送にとって「戦術的マイナス」だった。例えば「<あるある>で国は、免許停止をすることが出来た」などについて)。
 個人的関心で言えば、放送に関する情報規制よりネット情報を規制すること、その「理念」を「安心・安全」という概念で制度化(イデオロギー化)することの問題のほうが、すぐれて現代的だと思っているが、これも議論にならなかった。付け加えれば、それは「中間とのまとめ」の「通信における表現の自由」という表記をどう読むかということであり、すべての情報がデータベース化される中で「通信の秘密」は無効化されるのではないかという危機感を、ネット事業者というよりネットで情報発信する人(つまり、誰でも)が向き合わなければならないという問題なのである。放送は、出自以来権力との間に様々な経験を経て、ある種の免疫性を持っているが、ネットはそうした経験をしたことがなく、それがネットの自由というものだった。この始めての経験はネット事業者の問題ではなく、「人々」の問題なのである
 唯一意味のある指摘は、「放送として、情報の規制のあり方と産業的規制緩和による参入の自由度の拡大とを分けて論を立てるべき」という発言だった。 ひとつでも、意味のある議論があればそれでよしとするべきか。

(2)議論の方法
 もう一つの反省は、「業界益の一般的説得力」ということである。放送も「業界」である以上エゴはあるのであり、それは健全なことである。但し、それをどれだけ客観的に示し、世間に説得力を持ちうるかということが問題なのだ。「総合法制」はそれ自体の問題ではなく、どういう状況で提起されたものかといえば、シンポジゥムの中で示されたように、さかのぼれば2001年から「融合」推進の課題として出されていたものであり、「竹中懇」「政府与党合意」を経て今に至っているということである。これは一つの現実的「力」なのである。「総合的法体系」の意味を、放送にとっての問題点(放送の解体の危機)としてだけではなく、情報環境の全体状況としてどう読むかという業界としての読解力不足を感じた。それは彼等?の主張を認めるかどうかということではなく、そこまで読み込んだ上での「業界益」主張でなければ、客観性の確保にはならないということだ。その意味で、放送業界は外部にサポーターを作る努力に欠けていたというだけでなく、内側の視線に重きを置き過ぎてきたともいえよう。したがって、私たちにとって必要なことは対象となる事象(この場合は「総合的法体系」)の問題点の摘出と同時に、それを摘出する私たちの目線それ自体の客観化である。
 さてそうであるとして、論争の場でそうした方法により論争のレベルを上げるというのは、なかなか魅力的であるとして、それも相手と場による。それを認識しないままに、思い込みだけでそうした方法で臨むのは不用意であるだけでなく不遜であった。論争の筋肉の使い方を間違えた。反省の第二である。

(3)体力
 最も反省しているのは体力の問題だ。(1)の切り口から個別の議論に入らなかったのも、また(2)のような方法を途中で切り替えられなかったのも、後半戦の集中力の欠如だ。今までなら、誰の発言に対しても「若しそうであるならば、コレコレについてどう考えるか」という切り返しはしていたし、それは得意技でもあった。今回は、後半の後半でそうした緊張を持続できなかった。そろそろ終わらないかなと思ったのは事実である。近い立場の発言者がいれば、その間に体制を立て直すことも出来たかもしれないが、しかしそれはエクスキューズにならない。これまで参加したこの種の機会で、最も楽しくなかった。それは内容の問題ではなく、我が身の疲れ方(精神的体力)の問題だ。議論には知力とともに体力も必要であると知ってはいたがこれほど痛感したことはない。最大の反省である。スポーツ選手の引退の弁にも色々あるが、「体力の限界、気力もなくなり引退します」といったのは千代の富士だった。なんだかそんな気がして来た。聞きにきた人々を退屈させないようになどと思っていたが、残念ながらそれもできなかった。放送業界も40代の気力体力に充ちた論者が必要だ。

 最後に、「何を言っているか分からない」という発言に一言。「分からない」にも色々あるが、その中の一つは「自分の分かることだけで世界が成立している」と思うことである。自分に「分からない」ことがあるから、世界は面白いのである。



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