
No85.「制作者の人材育成政策とプロダクション産業の構造転換」
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2007.11.1 |
・USCの映像教育
コフェスタ(JAPAN国際コンテンツフェスティバル)の企画の一つである「国際コンテンツ人材交流・育成セミナー」に参加して、USC(南カリフォルニア大学)映像芸術学部長エリザベス・デイリーさんのプレゼンテーションを聞いてきた(ココをクリック。画像にリンクします。)。デイリーさんとの最初の出会いは、1989年のモントルー(スイス)の「エレクトロニック・シネマ・フェスティバル」のときだからもう15年以上前になる。夫君のジェイムス・ハインドマン氏(AFI=アメリカン・フィルム・インスティテュート理事)とご一緒だった。その後、お二人とは何度も会話する機会があった。今回もご夫婦で来日されている。最初の出会いのときに、TBSがフェスティバルに出品した「芸術家の食卓」(故・宮田吉雄演出)をとても高く評価してくださった。そうした縁もあって、TBSからUSCに毎年留学生を派遣するようになった。「ピンポン」や「ベクシル」の曽利君もその一人だ。僕も、「陰影礼讃」の上映と講演でUSCを訪れ、素晴らしい映画・テレビ教育の環境を見せて頂いた経験がある。USCはジョージ・ルーカス、ロバート・ゼメギスなどの監督を始めプロデューサー、カメラマンなど多くの人材を映画界・テレビ界に送り出している。
デイリーさんの話はUSCの映像やメディアの教育システムの話で、とても分かり易かったし、今までも折に触れ聞いていたことだったのだが、日本人参加者とのディスカッションも含めて「日本の映像産業の構造的課題」につながる問題提起として興味深かった。
映像教育には三つのプロフェッショナルな要素が必要だという。
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I. |
.Professional Faculty デジタルアート、批評、制作、インタラクティブ、脚本、等の教員としてプロの教員が必要だ。ロサンゼルスで勉強することはロサンゼルスという都市の文化を呼吸することであり、それは技術ではなくその文化に生きてきた人々=プロである教員たちとの交流で身につく。そこから、即戦力になる人材が生まれるのだ。 |
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II. |
Professional Facility 最先端の設備を用意し学生に平等の機会を与えること。ソニーやドルビー、シスコなどの協力でUSCの設備や機材は整備されてきた。これはチャリティーではない。大学はそれにより人材を育成する。つまり企業と大学の双方向の提供行為である。いま、ジョージ・ルーカスがコンセプトから参加している新校舎建設が彼の資金で進行中だ。 |
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III. |
Professional Practice 映像制作に関して必要な予算運用、スケジュール管理、著作権処理や契約実務、組合との関係、その他関連する分野の実務的作業を習熟しなければ、実践的な教育とはいえない。監督だけが映画を作るわけではない。様々な分野とのコラボレーションから作品が生まれることを知るべきだ。ハリウッドは、こうした教育でプロを育てるための先行投資をしているのである。 |
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・日本の職業選択と就職構造/「テレビを選び返す」
日本のコンテンツ制作の人材育成の現状から見れば、まことに羨むべき話ではある。
日本の参加者からの質問は次の2点だった。(1)「USCでは学生をどのような人材として育てようとしているのか」、(2)「卒業した学生は全員業界に就職出来ているのか。そうとは思えないが、その場合彼らはどうしているのか」。前者への答え、「それはとても奇妙な質問だ。われわれは理想的な形を求めていない。それを求めることは学生を『枠』にはめる事になるからだ」。後者への答え、「(映画志望の学生が)大手の映画会社に就職するとは限らない。様々な形で映像の世界で仕事をしている。すぐに作品を作る機会のない者もいる。大事なことは映像制作への情熱を持ち続けることである」。このQ&Aにアメリカと日本の相異が典型的に見て取れる。「職」を選択するということの意識と状況の違いがそこにはある。
最近はそういう機会も少なくなったが、何年か前までは「テレビ局に就職したいのだが、どういう準備をした良いのか」という質問を受けることがあった。「テレビ局に入るための勉強なんて不要だ。いろんなことに幅広く関心を持つことが大切」というのが、僕に限らず大方の答えだったと思う。それは、一つは日本の大学で意味のあるメディア教育があるとは思えない、むしろ余計な知識は邪魔だということと、仕事に必要な知識やノウハウは現場で教えられるものだという実態があったからだ。格好よくいえばOn-the-job trainingということだろう。まさに大学教育と職業経験の乖離である。但し、当然のことながら、学問としてのメディア研究とメディアを職業として選ぶことは別である。それは、実践的な映像制作やジャーナリズムの学習が求められるメディアの産業状況が成立しているかどうかとは異なる問題である。
日本のテレビ界の現状は、制作者(クリエーターというべきか)として仕事を選択することではなく、テレビ会社という企業を選ぶことである。日本の映像産業の中心が(何はともあれ)テレビであるとして、そこで仕事をするというためには、テレビ局に就職するという構造が基本になっている(もちろん、テレビ局の社員の数倍の制作スタッフが存在しているのが現実であるが、そのことは後で触れる)。このテレビ局への就職ということの意味を最初に考えさせられたのは、「TBS闘争」*註の直後に、村木良彦さんと話をしていて「テレビ局に選ばれた私たちが、テレビを選び返す」というテーマにぶつかった時だった。そうしたこともあってだろう、村木さんたちはテレビマンユニオンという制作会社を立ち上げることで「テレビを選び返そう」としたのだと思う。僕は色々考えたけれど、結局ユニオンには参加をしなかった(このことについては、また書く機会があるだろう)。だが、それから40年を経て、ようやく「テレビを選び返せるかもしれない」といま思っている。
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註: 「TBS闘争」ついては「TBS 新・調査情報」に連載の今野勉さんの『dAの時代-テレビも私も青春だった-』を読んで頂きたい。 |
話を戻そう。制作者になるということと企業に就職するということはもちろん異なるが、日本ではしばしばそうするしかないほど職業選択と企業への就職とはオーバーラップする関係にある。しかし、現にテレビ局制作ではない番組、テレビ局社員ではないスタッフは数多い。そのすべてが「テレビを選ぶあるいは選び返す」という選択で成立しているわけではなかろう。そうした自覚的な選択は極めて限られたものと考えられる。だが、それは意識の問題以前の環境の問題だ。「映像制作への情熱を持続する」といっても、それをトライする「場」がなければ情熱も拡散する。
・人材育成政策の基本課題と制作会社の主体性
では、「場」はどのようにして形成されうるのか。ハリウッドのような産業構造(高い頂点と広い裾野、そして多様な職種)に比べれば、日本の映像産業の中核であるテレビ産業はまことに箱庭的である(日本映画界は優れた作品を生み出しているが、産業としては成立していないと考えられる)。テレビのキー局でさえ毎年せいぜい50人規模の採用であり、全員が制作現場に配属されるわけではない。NHKも含めてテレビ局のプロデューサーやディレクターの総数は数百人といった程度だろうし、今後も急速に増えるということはない。だから彼らには「選ばれた者」という意識はあるかもしれないが、職業構成として「層」を構成するものではない。一方、番組数はメディアやチャンネルの多様化に伴い今後も増大してゆくであろう。局内の人的資源だけでは限界があり、それは既に現実となっている。したがつて、制作会社制作の番組の質量のレベルアップはテレビ局にとっても必須の課題なのである。一方、制作会社で仕事をする人たちの数は、局のスタッフの数倍になるだろう。しかし、制作会社の現状は極めて小規模な経営形態が多く、番組制作の量的対応能力を急速に拡大させることは期待し難い。そう考えると、制作会社への投資あるいは資金投入の仕組み構築し、番組制作(コンテンツ)産業の基礎を拡大育成することが、日本における映像産業成長の鍵であるといえる。2006年の「骨太の方針」に「10年間でコンテンツ産業を5兆円拡大する」(現在11兆円)と示されているが、この種の「分かり易過ぎる」政策提言は、どれほどコンテンツ産業の構造的課題を認識しているかが逆に問われているのである。
もちろん、テレビ局と制作会社の関係がこのままで良いという訳はなく、その改善にテレビ局側が果す役割は大きい。それは、テレビ局にとってもテレビ産業を長期的に成長させるための重要課題である。そういう意味では、テレビ産業の伝送と制作の分離(いわゆるハード・ソフトの分離)を至上命題とする考え方は、拙速であるだけでなく拙劣な選択である。それは辛うじて日本の映像制作能力を支えている映像産業全体の衰退につながりかねない。それよりも、テレビ産業にとってもメリットになり、なおかつ映像産業全体を底上げするためには、プロダクション業界の「構造改革」という視点から、制作会社への投資や資金提供の仕組みを形成することこそが、長期的というより中期的な課題であると考えられる。テレビ局の編成構造のあり方を変えていくためにも、こうした考え方を基本にする必要があるだろう。
その場合に大事なことは、「制作会社は小規模で経営も厳しい」という事実を「被害者的」に(制作会社だけではなく政策担当者も)捉えるべきではないということだ。「厳しい」という実態はそのとおりであり、テレビ局との関係で対等な立場に立ち得ないことはあるだろうが、それを<被害者-加害者>の関係で捉えている限り、産業育成の展望は見えてこない。また、敢えていうならば制作会社が自らその可能性を提示する意識が必要なのであって、それは誰かが代わってくれるものではない。「制作者であることを選んだ責任」は制作者そして制作会社のものである。そこは、「情熱の持続がクリエーターに未来をもたらす」と言い切れる「アメリカの幸せな状況」とは違う。日本の場合はどうしてもそこに、現状への異議申し立てという「屈折」がともなう。それは与件なのだから仕方がない。しかし、どう考えても、日本の映像産業の未来にとって、プロダクション産業の構造転換が最大のテーマだということに変りはない。テレビ局との関係が<変る=変える>ためにも、この一点に焦点を合わせることである。
・政策/表現/商品
ポストモダンといわれて30年、サービス産業、流通産業では様々なベンチャーが登場してきたが、映像産業ではその構造は基本的に変化がない(あるとすれば、ジャニーズ、ホリプロ、吉本興業などのタレントプロダクションといわれる分野の伸張であり、それは、芸能界がブッキングビジネスからライツビジネスへの変化を反映している)。映像制作の「情熱」と産業構造をどうコラボレートするか、その答えを出さなければならない時期に来ている。様々な力学の競争原理により自然成長することは望ましいが、若し政府が21世紀的な産業課題としてあるいは文化政策として映像産業(コンテンツ産業)を重要だとするならば、状況の本質を構造的に見ない限り、まともな政策は生まれるはずもない。一世を風靡した(している?)「融合論」*註や「ハードソフト分理論」の二日酔いから醒めて、才能を生かす「場」の成立を考えるべきである。「場」の成立は、才能を「点」としてではなく「層」あるいは「塊」として生み出すことを可能とするであろう。
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註:コミュニケーション技術の進展により、インフラや端末の共用は進む。また、通信と放送にまたがる境界領域が生まれ、新たなサービス分野やビジネスが登場する。それらは当然のことである。ここでいう「融合論」とは、融合の概念規定が不明のまま、「通信と放送は融合する」とトートロジーのように唱え、それを全ての議論の前提とするような主張を言う。 |
問題は、「映像制作(コンテンツ)産業に誰が投資(あるいは資金提供)をするかである。投資の目的は利益であるとして、短期的な利益回収は極めて成立しにくい。では、中長期の視点で映像制作ビジネスに投資をするモメントは存在するか。そのための説得力のある図を示すのが政策というものである。それもなければ、ルネッサンス期のパトロンか江戸時代の旦那芸のようなものに期待するしかない。だが、コンテンツ(とここで初めてカッコ抜きでいうが)とは、商品であると同時にそもそも公共財である。コンテンツの本質をどれだけ認識しているか、国の力量が試されている。
一方、メディアやクリエーターはいまどのような時代にいるのだろうか。冷戦構造の崩壊と9.11.の後の液状化する世界に対して、その中でアリバイの不在に困惑しているこの国に対して、そしてその中での日常に対して、クリエーターたちが何らかのメッセージを持たないはずがない。それを表現する「場」の形成は、テレビあるいはメディアに関わる私たちの根本命題である。それは、テレビ番組(ドラマ、ニュース、ドキュメンタリー、ワイドショー、バラエティー、スポーツ、など全てのジャンル)、映画、アニメーション、ゲーム、等など幅広い分野に及ぶ。作品としての表現行為と商品としての流通をいかに両立させるか、政策的課題とは別に私たちの存在そのものに課された問題である。
COFERTAの人材育成セミナーに参加した感想をそのまま書いてきた。局、制作会社、政策担当者、その他関係する人たちから様々な異論があるだろう。それは承知している。その上で、私たちは何を選択すべきか、夫々に考え、また議論をしていかなければならない。あまたある議論のテーブルの中で、“役に立つ”テーブルの一つくらいを用意するのも政府の仕事であろう。「お手並み拝見」と言いたいところだが、テレビ自身にも様々なことが問われていることを考えれば、そう他人事のように言っている訳にも行かない。
色々考えることを提起されたという意味でCOFESTAのセミナーは面白かったし、然るべき意味もあったと評価している。
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ここまで書いた時に、「TBS新・調査情報」No.68が届けられた。「dAの時代」は最終回である。今野さんは、僕が今ここに書いてきたことについて経験的且つ根源的な考察を記している(ココをクリック)
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