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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No86.「デジタル/アナログ再考」 2007.11.15

 「放送ハンドブック」(民放連編著)の序論「メディア論ノート」に書いたことなのだが、情報はすべての事象の変化とともに「原情報」として日々生成され、それが人によって知覚されることで「情報」となり、メディアによって伝達されることで社会システムとして成立する。デジタル技術は符号化と誤り訂正により、情報処理(蓄積・編集・伝送)を圧倒的に効率化し、社会システムの変更をもたらすほど巨大な影響力を発揮している(IT革命)が、人は0,1,0,1…ではなく映像・文字・言語・音声・形状など、つまりアナログとして情報を認識している。もっとも、人間の神経機能はパルス的に動作しているという話もあるから、そうだとすると人間も取り込んだ情報を体内でデジタル処理しているのかもしれない。ここから先は認識論という難解な世界に入りそうなので、ここで止めておこう。いずれにせよ、こうしたアナログとデジタルの関係を再考することが、いまメディアを考えるために必要なのだ。

 何故そのようなことをいうかといえば、ネットワーク社会の成長は不可逆的且つ加速度的であり、そうした変化の中でテレビジョンはどうなるのかということを考えることが、私の「仕事」であるからだ。もちろん、テレビのデジタル化におよそ10年間対応してきたことと、この問題は深く関係する。テレビジョンはどうなるのかということは、いわゆる「融合論」やそこから派生する「デジタル・コンテンツ市場形成政策」への反問としての意味でもあるからだ。そして、テレビジョンは情報の捕捉・編集・伝送というシステムとして成立しているのであって、その入り口と出口のアナログ情報、つまり本来の情報のあり方を再検証しなければならない状況にある。
 ところで、これも「放送ハンドブック」に書いたことなのだが、「『融合論』とは、通信と放送を限りなく同一のカテゴリーとして把握することで、新たな市場形成のための規制の見直しを課題とする産業政策的発想に基づく主張」としておこう。確かに、情報技術の展開にはそうしたベクトルが存在する。だが、そこから直線的に情報システムとしての放送がインターネットに置き換えられ、放送情報(ライブあるいはパッケージ)というコンテンツの形式がなくなるというものではない。例えば、ALL IPを理想形とする「総合的法体系」の検討作業の無理はそこにあると考えられる。
 なぜならば、第一に地上波テレビのデジタルネットワークの構築は確実である。これは、穏やかにアナログ放送が終了するかどうかということとは別の問題である。そこにどの程度の混乱があるかはともかく、あるいはその後テレビ局経営がどう変化していくかという問題があるとしても、今後30年〜50年デジタルテレビネットワークというインフラは維持されるであろう。既に投資行為に入ったと開き直っているわけではない。モデルとしてコスト計算をすればALL IPの経済効率は高いであろうが、同時性同報性という情報伝送特性においてはテレビ放送という独自システムの方がコストは安いと考えられる。放送がデリケートに注視すべきは、融合かどうかではなく、むしろグーグル型の情報ビジネスのスキーム(販促費・広告費を基本として、ユーザーは情報コストを直接負担しない民放類似型)の展開である。
 第二に、言うまでもなく、異なるシステム間の情報(=コンテンツ)交換が自由になり事業の相互参入により情報分野の活性化が促進されるのは結構なことである。だが、その場合、産業政策的アプローチではメディアそのものの本質的重要性がしばしば埒外に置かれることになる。こうしたアプローチで欠落する重要な論点は主として次のようなものであろう。
I. メディアと情報の関係をどう考えるか。コンテンツ市場論は、コンテンツとメディアの分離を前提としているが、そもそも情報がメディアに捕捉され伝達される段階で、メディアは情報をデザインする。メディア特性によってそのデザインが異なるのは当然である。そう考えると、すべてのコンテンツをトラックで運ばれる小包のように認識するわけにはいかない。メディアとメッセージは不可分な関係として成立している。その上で、商品としてのコンテンツの多様な流通関係を考えるというのが話の順番ではなかろうか。
II. これに関連して、デジタル技術による情報のデータベース化が進み、多様な情報の収集が容易になるとともに、情報に対する思考が怠惰になっているのではないか。冒頭に触れたように、情報の原型はアナログである。アナログとは意味のある世界である。情報を知覚しその意味を思考すること、あるいは意味を考えることから編集あるいは表現に至る行為をどう成立させるかが重要だ。誰もが情報発信できることは誰もが情報の意味を考えなければならないということである。まして情報のプロである放送局は、デジタル時代の情報の意味を検証するべきである。メディアリテラシーとはそういうものであるはずだ。
III. マスメディアとしての放送は、(1)ジャーナリズムとしての異議申し立て機能、(2)国民の共通の意識空間の形成、(3)経営基盤としての最大視聴者獲得原理(「大衆の眼差しの集約」)、の三点構造で成立している。これをIPネットワークに代替することは(当面)不可能である。但し、この三点構造は放送が内包する相互に相反する関係の問題として放送が自覚的でなければならないことはいうまでもない。
   
 そのいずれもが「情報処理」の問題ではなく、情報そのものの問題なのである。デジタル技術とは産業的条件であって情報とメディアの本質的関係の問題は別にある。私たちは、情報の「意味」を問いつづけるところにテレビジョンを引き戻して考えなければならない。そのとき、デジタルは何を変化させたのか、あるいは何を解体し何を創出したのかということは、もちろん本質に関わることであるが、「意味」を問えるのは情報そのものでしかないのである。

 さてそうであるとして、放送はどういう産業展開の図を描こうとしているのか。「今までどおりが良い」という答えが無効である以上、放送はそれを提示しなければならないのだ。

 今回は「ノートのためのノート」になってしまった。もう少し整理しないとホームページ掲載のレベルにならないと思うのだが、走り書きとしてご容赦い頂きたい。そのとき思ったことを書いておくことにもそれなりの意味はあるだろう。



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