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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No91.
「追悼 村木良彦さんのこと」
2008.2.1

“ラディカルということは、物事をその根本から捉えるということである”(マルクス「ヘーゲル法哲学批判・序説」

村木良彦さんが亡くなった。
このノートで、何人かの親しかった方々のことを追悼したけれど、今回ほど深いところから喪失感を憶えたことはない。村木さんは、それほど僕のテレビジョン、というよりはメディア総体との関わりに決定的な示唆を与えてくれた人だった。いま、あらためてそう思う。

村木さん…。
とても、とても残念です。

村木さんと初めて出遭ったTBS闘争の中で、あなたはテレビジョンを考える原点を示してくれました。それが、私とメディアとの関係の始まりであり、いまでもそれは変りません。
あなたは、いつもテレビに対して実験的であっただけでなく、「物事を根本で捉える」という意味で、全てにおいてラジカルでした。そして、とても穏やかであり、でもとても厳しかった。
「テレビとは何か」という、今また新たな答えが求められているその問を残したまま、あなたは遥か遠くに逝ってしまった。
私たちは、「シシュポスの岩」のようなこの問を、これからも考えつづけなければなりません。

さよなら、村木さん。

TBSメディア総合研究所
前 川 英 樹

 弔電は喪主に対して送るのだから、「ご尊父様のご逝去を悼み…」というのが普通だろう。だが、村木さんの訃報を聞いたとき、僕には全くそういう考えはなかった。ただ、村木さんに何を語ろうかということしか考えなかった。

 いま、手元に一冊の本がある。「反戦+テレビジョン <わたしの>カオス・<わたしの>拠点」(1970年2月23日刊 田畑書店)、村木良彦・深井守の共著である。深井守とは僕のことだ。何故僕が筆名にしたのか、そのことをどう思っているについては、後で触れる。
 1968年3月から5月にかけて「TBS闘争」と呼ばれる<闘い>があった。そこには、成田空港反対同盟のメンバーを取材車に乗せたことを巡る問題、ニュースキャスター田英夫の降板を巡る問題、そして村木良彦・萩元晴彦が制作した番組の評価と配転の問題、という錯綜した状況が反映されていた。この<闘い>は、「テレビジョンとは何か」というテーマを、経営に対してだけでなく、労働組合にも、制作者あるいは非現場で仕事をする人たち、そしてテレビに関わるすべての人たちに問うた、テレビの歴史の中で極めて異例の<闘い>だったといえるだろう。その詳細と”意味”は、「お前はただの現在に過ぎない/テレビに何が可能か」(1969年・田畑書店)と、昨年末まで「新・調査情報」に連載された今野勉さんの「dAの時代」を読んで頂きたい。
 結局、どの問題も会社の措置を変えさせることは出来ず、「テレビジョンとは何か」という提起も拡散して、闘争は敗北という形で終焉した。村木さんは、スタジオ管理課に配属される。黙って席についているという行為そのもので、独りで「テレビとは何か」を全ての人に問いつづけた。TBS闘争の総括メモを書いた僕は、その頃しばしば(多分少なくとも週に一度は)、新宿ゴールデン街の薔薇館で村木さんと遅くまで飲んでいた。村木さんは寡黙で、ぼくもその頃はあまり喋らないほうだった。黙って、二人でぽつぽつと言葉を交わす程度で数時間を過ごしたものだった。ママが「二人とも!もう少し話でもしてみたら」というほどお互いに黙って飲んでいた。僕から何を言えようか。ただ同じ場所でそれぞれの時間を過ごすしかなかったのだ。沈思とも韜晦とも言える時間だった。とても密度の濃い時間だった。
 全共闘運動が解体過程に入り、70年安保を迎えようとしていた時代だった。田畑書店から村木さんに「反戦青年委員会」(組合や政党などの既成組織を超えて戦う青年労働者の運動)のドキュメントを本にするという提案があり、村木さんから「一緒にやりませんか」と、何時ものとても静かな口調でいわれたのだった。それが「反戦+テレビジョン」である。それは、充分に成功したとはいえないが、単なるドキュメントではなく、「TBS闘争」で宙吊りにされていた「テレビジョンとは何か」という問題意識と、反戦青年委員会の運動をクロスさせようとして取材構成されている。長崎、仙台、大阪、そして東京で取材し、赤坂の旅館や喫茶店で原稿を書き、議論し、構成した。いま、パラパラとページを繰ってみて思うのは、未熟で生硬ではあるが、これはやはり一つのテレビ論の記録だと思う。そして、そこには当時の僕の重たい気持ちがそのまま映しこまれている。
 この本の初版の日付が1970年2月23日、そしてテレビマンユニオンの設立が2日後の2月25日である(テレビマンユニオンの設立経緯は当然「テレビマンユニオン史」に詳しい)。つまり、この本はテレビマンユニオンの設立過程と平行して作業されていたのだ。だから、僕にもユニオンへの参加の誘いはあった。僕は暫らく考えた。結局TBSに残るという選択をしたのだが、今思えば、「僕はあなたほどテレビが好きではなかったのだ」ということに尽きる。その時は「テレビ局がどう変っていくかを、内部で見続けたい」と伝えたと思う。「そうですね、そういう人がいることも大事なんです」というのが村木さんの答えだった。いまでも憶えている。こういうときに、「いや、そういわずに一緒にやろうよ」といわないのが村木さんなのだ。だから、何処か僕の中には、テレビマンユニオンには片想いのような感情がある。
 そうした会話の末に、出版の最後の段階になり著者名はどうするかということになった。村木さんは、ユニオン設立ということがなくてもTBSを離れて独立することを選択していたのだが、そういうことと関わりなく、本名で出版することにしていたのだ。TBSに残るという選択をした僕はやはり逡巡した。度胸がなかったといって良い。結局、深井守という筆名(この今の状況への不快を忘れない、という意味)にすることにした。このときも、「その方がいいでしょう」と村木さんはいったように思う。それは、「あなたとはここで別れることになる」というメッセージだったのかもしれない。いま本を手に取れば、本名を使うことが自己証明としてはるかに意味があったと思うのだが、致し仕方ない。初版の束を抱えて、TBSの中にあったテレビマンユニオン設立準備室の小部屋に足を踏み入れたとき、その場の昂揚と熱気を、そして「この世界は僕のものではない」と思ったことを憶えている。
 テレビマンユニオン結成後、ぱったりと村木さんとの接点は途絶えた。

 それから14年が過ぎて、村木さんと再会する。
 1984年にメディア企画というセクションに移動して、手探りで仕事を始めた時期だった。TBS闘争後、どんな仕事も拒まず引き受けて、その中で「テレビがどうなるか」を見続けようとしたものの、「テレビとは何か」「テレビ局はどうなるのか」という問いは、絶頂期の業界ではどうにも語りようのない問いであり、胸のうちに閉じ込めるしかなかった。僕はただ忙しく、時間だけが過ぎていった。制作者としての能力の限界は見えていた。さすがに行き詰っていたから、異動は転機と認識していた。
 とある日、赤坂の街角でばったり村木さんと出会い、「トゥデイ・アンド・トゥモロウ」という会社を設立したことを知った。メディア状況が大きく変化することを直感的に見抜いていたのだろう。それから暫らくして、村木さんが新たな拠点としていたそのオフィスを訪ねたときだっただろうか、「NHKで高品位テレビという開発が進んでいいて、これが凄い」という話を聞いた。NHKの技研にいったり、ソニーから機材を借りて映像試作をしたり、など、いろいろなことをやって見て成る程と思った。村木さんは先駆的にハイビジョンのプロジェクトを組織し、僕もTBSのメンバーとして参加する。こうして、初めは渋谷の、その後は原宿の村木さんのオフィスを頻繁に訪ねるようになる。異業種のメンバーによる研究会が終了した後、僕はそのまま残る事が多かった。村木さんの飲むものはビールからスコッチに変わっていた。お互いにあの頃より言葉数も増えていた。
 僕のテレビ人生の後半は、メディア状況の変化が激しくなる時代だった。村木さんが察知したように、今でも、というよりさらに激しくそれは続いている。その最初にハイビジョンに出会ったことは大きな意味を持った。そこから、メディアの構造、制度、技術、メディア論のあり方、そして遅ればせながらポストモダンと呼ばれる思想潮流、などについて知ることになり、現在の僕のメディア論的思考の基本形を少しずつ構築することになる。NHKとのさまざまな接点、行政機構との関係、などもそこから始まる。率直にいって、仕事がポジティブになった。何故といって、テレビはどうなるのかというテーマが、そのまま仕事のモチベーションになったからだ。そのとき、まだ「脱構築」という言葉を僕は知らない。村木さんと一緒に進めた「ハイビジョン・マガジン・プロジェクト」は面白かった。「記憶の海」「近代遺跡の旅」「ベルリンの壁崩壊」など、どれも新鮮だった。その一方で、僕はTBSで「芸術家の食卓」や「陰翳礼讃」などを制作することになる。
 ハイビジョンの歴史については、また別に書くことになるだろう。ハイビジョンはいまではただのテレビになってしまったが、ハイビジョンがテレビ業界の構造を大きく変えたことは間違いない。ハイビジョンからテレビジョンを考えるという僕の思いは間違っていなかったと思う。いま、「融合の時代」といわれる中で、僕は「あの時」よりずっとテレビジョンのあるべき可能性が見えるし、それを不可能性としてしか現実化していないテレビ状況に執着している。そのきっかけも、村木さんだった。
 しかし、村木さんはさらに実験的だった。NewYork1というアメリカの小さなテレビ局をヒントにして、取材・編集・送出まで極めて少人数でコンパクトなシステム(ビデオジャーナリスト)で成立するテレビ局の構想に意欲を持ち、それが新設された東京メトロポリタンテレビジョンのゼネラルマネージャーになることに繋がる。「僕のテレビ局」というかつての夢が、現実になるという期待(というよりは意思)があったのだろう。ハイビジョンが実験から実用に変っていく中で、村木さんとの二度目の出遭いは終了する。
 その後、時折の出会いのほか、ゆっくり話をする機会はなかった。一度だけ、テレビとインターネットの関係はどうなるのか、ということを話し合ったのが、2001年の冬の終わりか春先だった。「インターネットは凄い勢いで進化する。だけど、テレビと一緒になるものではない」と村木さんはいっていた。酒でも飲みながらといってあったのだけれど、村木さんは「酒は控えている」といってほとんど飲まなかつた。最後に顔を会わせたのは、実相寺さんの通夜の時だっただろうか。「地方の時代映像祭」のことも、BPOのこともちゃんと話をすることがなかった。

 村木さんは、映像作家としてスタートし、テレビジョンとは組織としての表現であることを発見し、「テレビ的表現とは何か」と自ら問い、テレビ局から自立した新しい制作者集団を作り、さらにメディアの変化の中でテレビ業界を離れてハイビジョンに挑戦し、テレビ局を超えるテレビ局の構築を目指し、注目されることの少ないローカル制作者に眼差しを向け、そして頽廃と混乱に傾斜するテレビジョンを撃つ役割を引き受けた。それは、すべてテレビジョンへの愛情だったと僕は思う。村木さんは、それほどテレビが好きだったのだ。村木さんのその行為の連続を貫いているのは、「原点は何か」と考え続ける意思だ。そこに、観念と現実との交点を求める生き方がある。「ラディカルということは、物事をその根本から捉えるということである」とは、マルクスが「ヘーゲル法哲学批判・序説」で語った言葉だが、正にその意味で村木さんはラディカルにテレビジョンを生き抜いた人だった。

 村木さん、あなたとはどうしてこんな風に間歇的な出逢いをしたのだろうか。思えば、テレビマンユニオン時代を挟んだ直前と直後だった。あなたとの二度の出遭いが、いま僕がメディアに関る基本になっている。そのあなたがいなくなったことは、直接会っていようとそうでなかろうと関係なく、僕にとってとても大きな喪失なのだ。あなたの存在そのものが、僕の緊張感の根底にあったのだ、と今そう感じている。それは、「ところで、君はテレビ局の中にいて、一体何を見たのですか」と静かに訊ねるであろう、あなたの視線と重なる。

 取材の間に、道頓堀で食べたてっちりのこと、取材費を預かった僕の勘違いで大阪からの帰りの新幹線の切符が買えなくなり、銀行が開くのを待って村木さんの口座から預金を引き出して貰ったこと、仙台の村木家に一泊したこと、TBSのテレビ玄関で奥さんとお嬢さんと待ち合わせていた情景に出会ったこと、「ユニオンを作ろうといった吉川は凄い、あいつには敵わない」と漏らしたこと、「これはホンとにうまいんだ」といってOld Parr Superiorのグラスを傾けていたこと、深夜帰宅するときに世田谷の家の近くまで何度か送ったことなど、語ればきりがない。

 三度目の出逢いはもうない。
 そして「あなたにとって、テレビジョンとは何か」という問いが残った。



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