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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No93.
「村木良彦氏の<テレビ論>についてのノート・補論」
-テレビジョンの可能性と不可能性-
2008.3.1

 前回紹介した村木さんが書いた「追跡・テレビ20年を考える」は、日本読書新聞(1973年2月8日)に掲載されたものだった。「調査情報」編集者金子登起世さんの追跡調査の結果である。感謝。編集長の市川君には「日付を記録するのはスクラップの基本です」といわれてしまった…確かに。この記事の見開きの反対ページには「追跡・テレビガイドの世界」が組まれていて、70年代前半のテレビ状況が窺えて興味深い。

[1]

 TBS「調査情報」(3/1発刊)に村木さんへの追悼と<村木良彦氏のテレビ論>についてのノートを書いた。御一読頂きたい。
そこでは、68年の「テレビの変容についての2つの視点」、70年の「テレビ表現論のための5つの起点」、そして73年の「エレクトロニクス・コピー・メディアという1つの提起」(前回このノートにも書いた)に触れながら(ココをクリック)、ぼくはこう書いた。
「しかし、『テレビジョンに何が可能か――それでも、こう問い続けなければならない』と私は書いた。その意味は、村木氏のテレビ論あるいはテレビ論を含んだテレビ的行為が提起した諸問題を、21世紀のメディア状況の中で組みなおすことであろう。そのための課題は、おそらく以下のようなものであると考えられる」として、10の項目を書き出した。これは取りあえずのメモといった形なので、これについて若干の補足(■印)をしておきたい。これは、僕自身の問題意識を具体化するためのノートである。

(1) 「テレビジョンは体制として機能する」という意味を、国民国家が「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)として成立する過程で、マスメディアの果たす役割という視点から再構築すること。政治力学として「放送における表現の自由」がしばしば語られるが、それをテレビの内在の論理として語りうるか、語りうるとしてその場合テレビジャーナリズムあるいはテレビ的表現はいかにして成立するか、「成立しえない」という答えも拒否せずに検証すること。

■ 「想像の共同体=共通の意識空間の形成」は国民国家の成立要件であり、さらにその上に、放送メディアは技術的特性に基づく周波数監理(免許制度)による国家との関係が二重化される…であるが故に、即ち国家との緊張関係のもとにある限り、『テレビ的表現とは何か』という問は常に原則的に成立するのである。いま、その「想像の共同体」そのものが変質しつつあるが、それは権力構造をどう変化させているのか。こうした視点から、「<個=私>とテレビジョンとの関係を問い続ける」ことで、権力とテレビジョンの関係を見直すことが可能になる。これを「断言肯定命題」(*)とするところから、テレビ論は始まる。では、如何にしてその<問>は成立し得るかといえば、それは制作者の想像力と経営の哲学による。それこそが問題なのだ。

(*)詩人谷川雁の言葉

(2)グーグルのような「帝国型情報空間」の登場と、膨大な情報消費社会の中で、テレビジョンは番組という商品の流通路であることを超えられるか。

■ 情報も商品という形態をとることで社会的財(価値)となる。しかし、全ての商品がそうであるように、商品は非商品という<質>を内在させるが故に商品となるのではないだろうか(これを使用価値と呼ぶかどうかは別の問題だ)。そうだとすれば、テレビにおける情報流通の本質は何かという問が成立する。ここから、情報を<メディアとメッセージ>という関係で認識するか、それとも<コンテンツとインフラ>と捉えるかの相異が生まれる。メディア論で政策を撃つとは、前者のスタンスに立つことである。村木さんが見抜いた「<放送労働者>にして<表現者>という関係」の延長に、こうした問題設定が必要であろう。

(3)権力構造が、法と規範による「規律訓練型(視線の内面化)」から、思考の自由を容認しつつアーキテクチャー(個人認証と情報管理)による「環境管理型」に変化しつつある中で(政治のポストモダン化)、テレビはどのように権力と関係するか。

■ 「視線の内面化」とは、近代以前の権力が権威と暴力で統治したのに対して、近代では規律訓練により「規範」を個々の意識に内面化することで、秩序を形成しようとする。「環境管理」は、情報技術により個々の意識に関与せずに、人を管理することで権力の偏在化が実現する。
こうした論点も含め、 (3)(4)については、東浩紀氏の「波状言論S改」「情報環境論集/東浩紀コレクションS」あるいは大澤真幸氏との共著「自由を考える」などで興味深い指摘が数多くなされている。例えば、20世紀型のメディアであるテレビでは「メディアとメッセージは不可分」という関係が成立するが、21世紀のメディアであるインターネットは、基本的にコミュニケーション層とインフラ層というレイヤー構造を形成し、情報技術が人々を自由にするのは前者であって、後者ではむしろ自由は制限される、など。僕自身が正確に十分理解しているとは言い難いが、これからのメディアを考えるための重要な論点と考えて良い。村木さんのブログにも東浩紀氏に言及しているところがあり、こうした問題は村木さんの視野に入っていたはずだ。認証と管理による匿名の自由の危機=<個>という概念の危うさとテレビジョンはどう関係するのか。

(4)人々のあらゆる情報行為が捕捉乃至は認証される社会において、不特定多数に向けての情報提供というテレビジョンの機能の意味は何か。その場合、テレビジョンの<時間性>を、実態としても論理としても深化させることは可能か。

■ 東浩紀氏は「情報環境論集」の「サイバー空間」で、ヴィヴィアン・ソプチャック(この人のことを僕は知らない)を援用しつつ、リアリズム−モダニズム−ポストモダニズムに対応する視覚メディアとして、写真・映画・電子的なもの、という流れで分析している。しかし、この「電子的なもの」は、コンピュータが想定されている。では、テレビはどう位置付けられるのだろう。ここでも、「テレビジョンとは何か」という問を私たちは考えないわけにはいかない。そこには、モンタージュされた時間と<”as it is”あるがままの時間>(「お前はただの現在に過ぎない」)のメディアにおける意味も含まれるであろう。尚、東氏はポストモダニズムと情報技術(コンピュータ)との相関性を、60年代末の時代状況から説き明かしている。村木さんの70年を挟んだテレビ論を、こうした観点からレビューすると何が見えるだろうか。

(5)誰でも情報発信者であり、誰もが表現者でありうるネット社会において、情報責任(=信用)はどうあるべきか。テレビジョンは情報に対していかなる責任を負いうるか。

■ 放送関係者は、しばしばインターネットと放送の違いは情報編集責任が求められるかどうか、という点を強調する。その場合、制度上の問題なのか主体的なかかわりの問題なのかがしばしば曖昧である。情報信用はイメージ(みんなが信用している)と経験則(有用性)により構築される。それはモラルの問題であると同時にスキルの問題である。プロフェッショナルとしてのスキルはモラルを内包する。(8)との関係。

(6)「安全・安心」が食や住居に求められていると同じように、情報にも求められつつあるが、それは何を意味するのか。「安全・安心」は完全性を求めるものであって(7割の安全でよいということはない)、情報にそれを求めるとすればそれは一つのイデオロギーではないか。情報の「安全・安心」について、テレビジョンはどう応えるか。

■ 総務省の「通信・放送の総合的法体系に関する研究会」<とりまとめ>は情報通信分野の産業振興策を前提としているが、そのコンテンツ法制の理念は、「(通信行為も含めた)表現の自由」と「情報の安全・安心」(セキュリティー)である。「安全・安心」という誰もが賛成する概念(というより、この場合はキャッチコピーか?)は、情報のように数値化できない分野では、実は危険なのではないか。そうだとして、ではどのようにして人は<情報の危険性>を回避できるのか。

(7)以上のような状況において、「公共圏」とは何かが問われている。制度化された「放送の公共性」にもたれかかるのではなく、新たな「公共圏の形成」にテレビジョンはどのように関わるか、あるいは関われないのか。

■ 「公共圏」とは何かということが、そもそも問題だ。まして、一方ではメディアと権力の関係が曖昧化されつつあり、他方では情報がコミュニケーションというより消費行動の対象とされる二重の状況が進行するなかで、「公共圏」の問題を考えることは容易ではない。ただ、「放送の公共性」という時に、「公」とは何かについて敏感であるべきだ。「公」とは制度により保障されるものではない。(2)の問題との相関。ところで、ネット空間と公共圏はどう関係するのだろう。ここでも、<個=私>と「公共圏」との関係について、もっと議論を深化させることが求められている。

(8)テレビが「共同作業性」を前提としているとして、テレビ局員とそうでないスタッフ(業務委託あるいは派遣労働)の関係、テレビ局制作番組と製作会社制作番組の関係、はどうあるべきか。テレビが「個々の番組の総和ではなく、巨大な流れの総体」であるとすれば、<行為の質>として等価であるべきではないか。こう考えることで、デジタル化とネットワーク時代における編成構造の変化に対応できるのではないか。

■ (7)が観念的な困難さだとすれば、この問題は現実的な困難さが伴う。しかし、産業構造としても表現行為としても、この問題を論理的に明確にしておく必要がある。テレビジョンの「構造転換」は、これを抜きに成立しないだろう。制作者の「層」を継続的・多角的に形成することがテレビジョンの可能性を広げるし、それは<融合>状況に対応するためにも必要なのである。尚、このテーマと(5)の視点が、村木さんも委員であった「発掘!あるある大事典」調査報告書の基本構造として読まれるべきである。

(9)いま、テレビジョンの可能性ではなく不可能性こそ問われるべきではないか。

■ 「不可能性」には二つの意味がある。
<1> 情報技術の進化を前提に、情報ネットワークの空間的・時間的な拡張により、テレビジョンの機能そのものの社会的根拠が希薄化しているとして、その限界を考えるべきかどうか(*)。そうだとすれば「テレビ的表現」を問う根拠は何か。「テレビジョンに何が出来ないか」という自己確認は「テレビジョンに何が可能か=何をするべきか」の前提となる。
<2> (1)で「制作者の想像力と経営者の哲学…それこそが問題だ」と述べたが、それに応える素地がテレビ局内に蓄積されているか。現場と経営の双方における「テレビジョンとは何か」という意識の不在。「可能性」は原則的に存在するとしても、それを現実化する力量の問題。

(*)例えば、内田樹氏は『メディアはメディアについて報道しない。…テレビはいつ、どのように消えるのか?生き延びることができるとしたら、どのような条件をクリアーすることによってか?』という重要な論件について論じているメディアを私は知らない。少なくとも、テレビ関係者たちには『テレビの消滅』の可能性について、多少なりとも想像力を発揮する気持ちはなさそうである」と述べている(「毎日新聞」07.11.8.夕刊)。また、坂村健氏は「社会のデジタル化・ネットワーク化によって状況は変わる。…『新聞の未来』について私に確実に言えることは『新聞』」という概念がバラバラになること。文字ニュースの『読者』は存在しつづける。その2点だけだ」とした上で、しかし「未来」をどうデザインするかを決めるのは技術ではなく、あくまでも社会だ、という(「産経新聞」07.12.17.)。 こうした認識を「テレビや新聞の実態を知らない学者の発言」あるいは「テレビと新聞は違う」と言い切れるか。言い切るとした場合、その論理的根拠は何か。

(10)テレビの現在において、内的批評(=批判)の提出こそ、最もテレビ的行為ではないか。

■ この表現は、やや短絡している。最もテレビ的行為は、表現現場の行為である。しかし、テレビジョンに関わる者にとって、その接点は全て現場だと考えるべきだ。その現場において<テレビそれ自体を批評化できるか>も含め、テレビに関わる人間が、どれだけ<テレビジョン=自己>を客観化しうるかが問われている。「疾走しながら叫んだ幾つかの断片を提示すること」(「ぼくのテレビジョン」)や<テレビジョンの変容を見る2つの視点><テレビジョンを考えるための5つの起点><エレクトロニクス・コピー・メディアという1つの提起>、それらは村木さんが示したテレビジョン自身を批評する言葉だ。このとき、批評は一つの行為である。日本では、映画は産業として衰退したが<映画制作と映画批評>という関係は成立している。テレビでは番組批評はあっても、それは<テレビ批評>ではない。批評の成立しない分野は文化ではない。それは批評の責任ではなく、テレビジョンの内在的問題である。さて、そうであるとして、僕にとっての現場は何処か?

[2]

 こうした考察は、もう一つの作業とし平行して行われるべきである。それは<70年代>の評価だ。このテーマを詳述する力量はない。あくまでも、これも<メモ>である。

 「お前はただの現在にすぎない」には、カルチェラタンの学生叛乱、ORTF(当時のフランス公共放送)の闘争や社会主義チェコの自由化運動、日本の日大全共闘などをコラージュし、最後に思想家内村剛介との会話で構成された1章がある。すぐれたドキュメント感覚だと思う。
 フランスの学生叛乱など60年代後半は世界的に若者たちの行動は世界的な広がりをもっていた。それは同時的にして連鎖的だったのだ。短く見ても第2次大戦後の体制、少し長く見れば近代そのものの解体過程の始まりだったと、今にして思う。その嵐が過ぎた後、左翼は解体して<サヨク>となり、革命は政治の言葉から経済あるいは技術の用語になり、政治と文化の緊張関係は喪失する。ベルリンの壁解体(1989年)はその行き着いた先にあり、そして9.11.がやって来る。
 70年代は、日本でも「戦後的」なるものと「戦後・後的」なるものが、不連続線を形成して、乱気流のような不安定な状況を生み出していた時代だった。いわば60年代までの空気と80年代以後空気が入り混じり、入れ替ろうとしていた。その後に、「思想的にスカだった」といわれる80年代、さらに「失われた10年」が続く。
 60年代後半から70年代にかけては、ポストモダンが風俗としても思想としても成立する時代であると同時に、それはコンピュータによる情報処理が社会的に一般化する時期でもある。アラン・ケイがパソコンを開発したのは、まさに1968年だ。アメリカ西海岸で、コンピュータのベンチャーが発展したのは、この情報技術の革新とポストモダン思想が結合したものだと考える論者は多い。解放の思想と市場主義の並存。そう考えると、テレビジョンの歴史と村木さんの<テレビ論>の関係を再確認する意味が見えてくる。つまり、こうした時代を経験して(…本当に経験したのか)、テレビはどう<変容>したのかということだ。確かに<変容>したであろうが、それは何だったのか。テレビジョンは「大衆のまなざしを集約する」(*)ことを生業とする産業であり、従って時代と添い寝をするものでもあるが、その自らのポジションをどう客観的に捉えるか。その問いの上に現在のテレビジョンはある。「融合」も「レイヤー化」も、こうした流れと無縁ではない。間に合うかどうかは分からないが、問い直すべきことは問い直さなければならない。何故ならば、それが<私たちのテレビジョン>だからである。
…ここまで書いて考えた。このテーマを今書き切るのは無理だ。態勢を立て直す必要がありそうだ。そして、もう少し考えつづけてみようと思う。今回は、そのための走り書きだということにしよう。

(*)柏木博の言葉

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「舗石をはぐと その下は 砂浜だ」
(「壁は語る」 J・ブサンソン編 広田昌義訳・粟田潔構成 1969.1.竹内書店)

 1986年にパリの壁に書かれたこの言葉を、いまテレビションの可能性として読むことは、幻影だろうかそれとも希望だろうか。テレビジョン50年の歴史を剥ぐと、その下にはまだ新鮮な地下水脈があるのか。いずれにせよ、私たちはここから離れるわけには行かないのである。

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 村木さんについて、3回続けて書いてきた。
 これで一区切りにしよう。

 一つだけ付け加えれば、僕にとって<時間感覚>というものは、爪先から垂直に立ち上がり、意識を通過すると、背中に添って流れ下り、踵の後ろに堆積していく、どうしてもそういうものなのだ。だから、1968年の<問>を今の<問>として取り出すのに、余りズレを感じないのかもしれない。

1989.6. モントルー(スイス)

 



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