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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No95.
「07/08年度・メディア状況の焦点」
2008.4.1

 桜が咲き、そして2007年度が終わった。
 昨年後半から、米大統領選白熱、サブプライム問題、ギョーザ事件、円高株安、石油高騰、イージス艦衝突、ロス疑惑再浮上、チベット暴動、日銀総裁空席、などなど内外とも耳目を集める様々な現象が連続して起きている中で、それに比べればメディア状況の変化は目立たないように見えるが、しかし静かに?着実に大きな角を曲がろうとしている。いくつかの重要なポイントを記しておきたい。

1.総合法制(レイヤー型規制体系)
 「竹中懇」「政府与党合意」「通信・放送の総合的法体系に関する研究会」という流れは、「融合法制検討」という段階に来ている。参院選の与党敗北により「改革路線」が後退、レイヤー化論は政治的影響力を失ったかに見えたが、底流としての竹中路線は継続していると考えてよい。これは、政権の問題ではなく、ポスト工業社会における日本の選択肢として現実的な要請がある(他に選択肢がない?)からである。政界の一定の支持、関係省庁の積極対応、産業界の期待や学会の潮流という背景もある。
 では問題は何か。
 第一は、<情報通信法>とは、経済法であると同時に言論法であり、その意味を産業論的発想のレイヤー化論は理解していないことである。。無線の有限性を前提とした国の免許対象である放送が言論機関として成立するためには、国が放送行為に対して間接規制という仕組を維持することが不可欠である。情報内容への直接規制はその前提の否定となる。レイヤー型の規制は、コンテンツレイヤーを想定しているが、それは何を規制するのだろうか。これを放送の免許基準とすれば、直接的な情報規制になる。そうではなくて、コンテンツ流通の促進のための規制だとすれば、それは法制度の問題ではなく市場の問題であり、その場合にいわゆる「ボトルネック論」の観点に立てば、情報法の問題ではなく「公正な取引」という別の法的問題である。
 第二に、とはいえ情報分野の産業的な活性化が求められていることは否定すべくもないし、放送もこの問題の埒外にいられない。そうだとすれば、放送の側から要求すべき経済的制緩和は何だろうか。対象となる論点は、「放送免許の地域性とCATVとの経営統合」、「マスメディア集中排除原則のあり方」、「『あまねく普及』と経営の安定性」、「基幹メディアの制度化の是非」、「デジタル移行の事業者責任と法制度」、などであろう。これらは、「べき論」としてではなく、放送事業者が自ら選択しなければならない諸課題である。
 その上で、「事業の垂直統合の容認」との関係を整理する必要がある。「イイ所取り」は当然としても、世間に対する説得力は欠かせない。

2.NHKの影響力の低下
 竹中改革の一つの焦点はNHK問題であった。そのNHKは、いま急速にその影響力を低下させているように見える。これまでの民放事業者の主張である 「NHKの肥大化に反対」という立場から言えば、好ましい変化であると思うだろうが、その本質的な意味は別のところにある。
 竹中型改革の原点は民間の市場形成による産業の活性化であり、「非民間」の弱体化である。NHKはその典型として認識されていた。一方、権力は常にメディアをコントロールしようとするのであって、公共放送NHKは格好の対象であった。つまり、NHK改革とは、市場主義とメディアコントロールという二重の力学が働いていると考えてよい。したがって、いわゆる不祥事は、NHKの内部構造の問題であるが、こうした背景から考えれば、その入り口という位置づけになる。経営委員会主導という構造(制度的には何も変っていない)が、俄かに成立したのもこうした事情による。
 では、NHK問題とは何だろう。その基本的な論点は、第一に受信者との契約関係を明確にすること、つまり「どの時点で視聴者はNHKと契約したか」を形式として具体化し得るか。第二に公共放送の「公共」とは何かを経営理念として明示すること、第三にNHKの経営資源の余剰は「公」に還元されるべきこと、即ち経営の効率化とは経費の節減という視点よりも、番組の公共財化と放送産業への資源投下(例えば番組制作分野のファンド化)として検討されるべきこと、第四に「自己増殖」の論理を捨てること、具体的には関連会社・団体の見直し。第五に以上のことをNHK内部の共通認識として経営委員会に明示すること。そして、最後に、経営委員会とは何か、経営委員会は誰に責任を負っているかを制度的にも実態としても明らかにする必要があると考えられる。放送は、政治との緊張関係を持続することを条件として成立する。つまり、市場論とは異質の要素を内包しているのだ。その典型がNHKなのである。NHK不要論や民営化論など様々な考え方があるだろうが、NHKは少なくとも現時点では社会システムとして機能している。その上で、「NHKと民放は車の両輪」というような旧来型の認識を越えたNHK論が必要なのだ。そうでないと、放送そのものの存在理由の問い直しは成立しないのである。

3.「地デジ」関連課題の明確化
 2011年7月24日のアナログ終了が、いよいよ現実的日程として意識されるようになってきた。私自身の想定に比べれば、2年程遅い感じだ。送信側はデジタル混信やリパッキングなどポスト・アナログのいくつかの問題はあるものの、衛星利用のいわゆる「セイフティーネット」も含め、全体的な状況はほぼ見通せるところに来ている。問題は受信環境である。受信機普及は想定される普及カーブに沿っているものの、2011年段階でデジタル放送受信状況がアナログ終了条件を満たしているという確信は得られていない。放送側としては、「やるべきことは全てやり尽した」という実態を示すことが何よりも重要であり、そうであってこそ、明確に政府としての措置(いわゆる「国策」論)を強く求める立場に立てる。昨年漸く「関係省庁連絡会議」が設置されたが、「連絡している」場合ではないのであって、総務省を超えた課題への対応は政府レベルの実行体制が早急に整備されなければならない。その際留意すべきことは、「混乱なき移行」を目指すことは当然であるとしても、しかし「混乱はありうべし」と想定して対応体制を組むことである。この点を曖昧にしておくと、「2011年延期」論がいつまでも残るであろう。現在の政治状況を考えると極めて懸念されることではあるが、アナログ跡地利用の問題を考えると、政府としても2011年アナログ終了は絶対命題なのである。一方、放送事業者としては地上デジタル放送ネットワークを自力構築したことは、インターネット時代の放送の存在根拠(インフラとコミュニケーションの一体化)としての意味を持つものであることを本質的なところで認識する必要がある。デジタル化のための投資による赤字化が増加している中で、さすがに後戻りを唱える事業者はいないものの、デジタル化そのものへの抵抗感(不納得感)が根強く残っているままでは、ネットとの連携も融合も対決も出来ないであろう。

4.Web2.0時代の動画流通
 GoogleがYoutubeを買収した。そして、Googleが広告費売り上げで電通を抜いた。ネット上の動画配信の拡大傾向は続いている。そのビジネスモデルは有料モデルから広告モデルへシフトしつつあるようだ。日本では政策的に「通信と放送の融合とは、テレビコンテンツを通信ネットワークで流通させること」といわれているが、いま進行中の現象の根底にある変化は、テレビコンテンツの二次利用ではなくて、ネットユーザーの自主的な映像コンテンツの共有ではないか。その狭間にテレビ番組の無断投稿があるのであって、それだけを問題視すると、状況を見間違える。一方では、「ニコ動」のようなテレビ番組への書き込みも増加するだろう。さらに、テレビニュース取材の限界を超えたところから、ネット上に事件事故の映像が配信されている。ジャーナリズムの根底が問い直されているのである。
 放送側は「融合ではなくて連携」というが、こうした「融合」は間違いなく進展する。つまり、融合政策もそれに対する放送の防禦的対応も、「テレビコンテンツの二次利用」にだけ焦点を合わせるのは、状況とズレを生ずるのではないだろうか。例えば、JRCが管理楽曲の演奏をYoutube上で使用することについて、Googleと包括契約を結んだ。その意味と影響をどう捉えるか、流れは変わりはじめているのである。
 そうだとすれば、(1)広告ビジネスモデル、(2)著作権保護、(3)テレビジャーナリズム、というテレビの基本構造そのものを揺るがす変化が進行していると考えるべきであろう。とはいえ、テレビジョンの影響力は等分の間は相当程度に強いことは間違いない。とするならば、進行中の変化との相乗効果を取り込むべき選択は何かということになる。防衛的対応は限界がある。相対的優位性を武器にするしかない。

5.番組制作会社との関係(総務省、経産省、公取、経団連、etc,)
 総務省はコンテンツ取引市場の形成の観点から、放送番組の一定の比率を制作会社制作番組とする指針を策定するという検討を行って来たが、局は既に実態的に相当程度の番組が外部発注であることを示し、ガイドライン化は見送られている。しかし、「融合とはテレビ番組をネットに配信すること」という考え方からは、局の支配力が市場形成のボトルネックに当っているという主張は今後もしばしば提起されるであろうし、レイヤー型規制体系の論理は、「事業の垂直統合を認めるが、事業分野としては別個のもの」という考え方が前提となるため、局にたいして調達比率に関する規制を求めたり、あるいは「公正な取引関係」を要請する流れは継続されるであろう。
 この問題の論点は概略以下のとおりではないか。

(1) 番組供給比率の問題以前に、番組制作を産業として成立させる条件整備が重要である。現在、テレビ番組制作者は局内スタッフと制作会社スタッフと総計しても推定して数万といったところだろう(技術スタッフを入れても10万未満か)。これでは「層」として成立しているとはいえない。世界最高水準のブロードバンドネットワークが整備されているとして、さらに番組=コンテンツへのニーズが高いにも拘らず、何故この程度の規模なのだろう。市場がテレビに偏重していることによる弊害だということなのだろうか。むしろ、テレビ以外の分野からのコンテンツ産業への資金投下が限定されていることの方が問題であるように思う。
(2) テレビ局から見ると、局内スタッフという経営資源は量的に限界がある。24時間編成という構造を維持し、時代の変化に対応した番組制作を継続するためには、能力の高い制作会社と緊密な関係が不可欠である。従って,「取引の公正な関係」を前提に、より柔軟で公開されたな制作会社対応が求められている。
(3) 若い才能のあるクリエーターがテレビ以外の分野でサクセスストーリーを目指す傾向が、この10年で目立ち始めている。テレビジョンにおける才能の発揮を具体化することが、局にも制作会社にも必要であり、それはまず何よりもテレビ局が番組制作業務をどのように位置づけるかによる。それは、局の中と外で変るべきではない。こうした観点からも、制作会社対応の見直しが必要なのだ。
(4) こうした対応を現実化することで、インターネット時代、Web2.0の動画配信時代におけるテレビのポジションを見出すべきなのである。

6.日本の情報分野は「ガラパゴス化」!?
 日本の情報産業・情報文化はガラパゴス化(あるいはマダガスカル化)といわれるほど特異な発展をしているという。その一つの典型は、ケイタイの利用のされ方であろう。ケイタイによる長文のメール、ケイタイ小説の登場などは、日本固有の現象だという。情報発信のツールとしてPCの伸びが鈍化しているというデータがあるが、これもケイタイとの関係で見るべきであろう。
 そもそも情報分野のグローバル化の議論は、これだけケイタイサービスが国内で高度化しているにも拘らず、携帯端末の国際市場に占める日本メーカーのシェアーが低いのは何故か、ということが一つのきっかけであった。国内でケイタイが発展したのは、iモードの技術の先行性と料金設定の低さ、あるいは「カナ入力」のキーボード配列を理由とする考え方もある。しかし、その底流として戦後の日本が安保体制下で軍事力を抑制し経済成長に専念することで、特に1970年代以後に<政治的緊張>の外で”ポストモダン”の典型といわれるような社会的な展開を継続してきたことがあるように思われる。いま注目されているポップな現象、アニメ、ゲーム、コスプレ、などなどのいわゆる<アキバ型文化現象>も、こうした流れの中にあり、ケイタイ文化もこれに隣接する位置にある。つまり、端末市場では圧倒的劣位にありながら、文化的には国際的に注目されていることとは裏表の関係なのではないか。こうした見方のレンジを少し長く捉えれば、鎖国時代の江戸が高度な文化水準に達し、例えば印象派に強い影響を与えたことに類似を見るのは些か牽強付会かもしれないが、しかしそう考えると「ガラパゴス化」は「江戸化」ということも出来そうだ。
 NTTのNGNやデジタルテレビの方式であるISDB-Tも、国際市場で通用するかどうか疑わしい。これを国際的に孤立というのか、それとも固有の発展というのかは難しいところだが、ケイタイ小説からノーベル賞作家が生まれないだろうからといって、何が問題なのだろう。おそらくいま進行している現象は、そうした誰もが認めてきた権威や基準の外で起こっているものと思われる。しかし、こうした事象が”革命的変化”と呼ばれるには、まだ何か強いインパクトが必要なのだと思う。いずれにせよ、戦後の再評価とは、こうした視点も必要になるのである。何しろ、「オタク」と呼ばれた世代が中核になろうとしているのだ。

 放送を軸にしたメディア状況をスケッチして見た。他にも様々な展開があり、様々な問題がある。だが、ここにノートした変化、課題、論点をどのように捉えるか、2008年度のメディア状況は益々多様に、そして一層刺戟的な場面を迎えるであろう。私たちがそこで何を選択するかによって放送の未来は決まる。<変化>の本質を見抜くことから、全ては始まる。



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