
No102.
[アントニオ・ネグリの<マルチチュード>と是枝裕和の<中継>の思想] |
2008.7.15 |
世界各地で騒乱?が起きている。直接の要因は、原油や食料の高騰によるものだろうが、冷戦構造解体後のアメリカ一極支配という過渡期を経て、世界的に不安定(プレカリオ)な状態に入りつつあるということだろう。プレカリアートという言葉も登場してきた。アントニオ・ネグリによれば、こうした不安定性は、資本がそもそもトランスナショナルであること、現代はその発展系としてのグローバリズムの段階(「帝国」の形成)に入ったことと相関する。一方、産業労働が変質(フォーディズムからポストフォーディズム)し、認知労働(知識労働)が支配的になることにより、人々の行為と意識が多様化し、「マルチチュード(多様性と差異性を包含した勢力)」が形成される。このマルチチュードがネットワークを形成することから、「資本主義と違う近代」という可能性が生まれる。そのキーワードは<公>ではなく<共>である・・・という。ネグリの思想をこんな風に括って良いのかどうか疑わしいが、大外れではないだろう。少なくとも、最近日本でもおこりつつあるフリーターたちのデモも、こうした世界構造の変化と無縁ではないはすだ。
さて、そうだとして、つまり資本と情報に国境はないということだが、「国家」なるものはどうなるのか。この問いは「Broadcastというシステムはどうなるのか」という問いでもある。何故ならば、国家は暴力(軍隊と警察)の独占装置であると同時に「想像の共同体」でもある。意識に深く関わるというこの国家の性格は、近代国家が国家として形成される過程で成立したからだ。そこでは、先行する政治形態への異議申し立て(言論表現・結社・信仰などなどの自由)を通じて、個々人が国家の構成員としての認識を共有することになり、ここに共通の意識空間である近代国民国家が誕生した(と僕は理解している)。
近代憲法において、上に挙げた諸権利が保障されているのはこうした事情によるものであろう。その場合とりわけプレス(新聞・出版)が想定されているのもこうした歴史的背景による。放送は後発のマスメディアとしてプレスに準ずる存在であるが、同時に国家が管理する周波数を免許されるという事業構造であるがゆえに、かつまた同時性同報性という強力な機能を備えているという特性から、共通の意識空間の形成という「国家的要請」に特に深く関わらざるを得ない。序に言うならば、意識空間と物理的空間(領土)が国家の権力行使の範囲だとすると、それを超えた場合を戦争ないしは覇権的な警察行為ということになる。他方ではこの<空間>を維持することを、総体としてのガバナンスというものだと考えられる。そこには、徴税や市場の効率化や富の再配分としての福祉政策などの公共政策が含まれる・・・と僕は推測しているが、どんなものだろう。
そこで話を元に戻せば、資本と情報のグローバル化とマルチチュードのネットワーク化の時代に、<Broadcast>はどのようなポジションに立たされるのか、ということになる。国家と<Broadcast>との関係は、資本と情報のグローバル化の中でさらに接近するものと推測される。それぞれの存在理由を相手に求める力学がそこに働く。そのとき、<Broadcast>の自立とは何か、プレスを想定したメディアと権力の関係は<Broadcast>においてどのようになるのか。もちろん、インターネットと国家の関係も同時に問われることになるが、もともと越境性を特性とするインターネットについては、問いのあり方が異なるであろう。このことは別途考えなければなるまい。しかし、このような問いがインターネットにも問われるということそのものが、<Broadcast>の可能性と深く関わっていて、そのことが重要なのである。
何故ならば、第一に国家は「物理的」「意識的」空間を支配するが、同時に即時性を特性とする電波メディアである<Broadcast>も管理しようとする。しかし、「決定的瞬間」において「即時性=共時性」は権力の管理の外に跳躍するポテンシャリティーを放棄しない。決定的瞬間とは、歴史的大事件を意味しない。それは管理と自由、安定と偶発性の交点である。それが<Broadcast>の本質なのである。第二に、<Broadcast>は組織であり、それゆえに強力な情報収集力及び編集力を行使しうるのだが、それはインターネッでは不可能だというわけではない。そのために投下するコストとの関係で<Broadcast>が優位にあるのは、社会的条件に過ぎない。それ故に、その優位性について制度的担保を求めることは、既得権擁護と受け取られるであろう。したがって、<Broadcast>に求められるのは、自らの優位性の証明を行為として示すことであり、そこに新たに可能性を見出す<場>が開かれる。そして第三に、その<場>は「決定的瞬間」における「即時性=共時性の跳躍」が顕在化したときこそ「メディアがメッセージになる」、そのような<場>なのである。跳躍によって状況(原情報)は「情報」になり、そして<即時性=共時性>は直ちに<持続性>に転化する。それが、どの国のどの地域で起ころうがそれは世界史的意味を持つということが、グローバリゼーションとマルチチュード化の意味なのだ。
このように考えると、<Broadcast>はどのようにして「ポストフォーディズム」時代、つまり21世紀的な国家との緊張関係を構築するかということが、問いの内実であることが見えて来るのである。現に<Broadcast>は存在し、システムとして機能していているのであり、かつ僕たちはそこに関わっている以上、こうした問いから逃れられない。問いがどこかでずれているのなら、それを修正するのもまた僕たちしかいないのである。
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ところで、「歩いても、歩いても」(監督 是枝裕和)を観た。永く記憶されるであろう映像がいくつもあった。鎌倉育ちの僕には、ロケ地の三浦半島や湘南の風景は、その空気とともにじわっと沁みこんでくる。抑制的カメラワーク、映像の外の台詞と音響、美術と照明のアンサンブル。24時間の出来事(といって良いのかどうか)、台詞の裏にあるドラマの深部に潜むそれぞれの気持ちのざわめきが伝わってくる。<家族>という関係の調和と非調和の危うい関係。そこに、是枝さんの人間との距離感が見えたように思えた。YOUがとても良かった。それにしても、原田芳雄も老人役を演ずるようになったんだ。
是枝さんは、「中継の思想と非即時的再構成の交点における考察」(テレビマンユニオンニュース・No599)で、この作品と「あの時だったかもしれない-テレビにとって私とは何か-」(村木良彦追悼番組)についてこう書いている。「僕自身は放送局を知らず、もともと制作会社のディレクターだったこともあって、生中継に立ち会った経験がない。その興奮も制作者としてはしらない」。しかし「番組が中継する作り手の思考は”生”ではないが、これを視聴する側の内部で追体験される思考は再生ではなく生成(ライブ)であるならば、必ずしも番組は『生』である必要はないのではないか」。「生中継できない再構成による中継に、この映画は一歩近づけたのではないかと自負している」。
ドラマであれ、ドキュメンタリーであれ、「時間をどう再構成するか」という制作者の意識と、「見るものの内側に引き起こされるリアクション」とは切り離されているということ、換言すれば「情報のエンコードとデコードの相対的自立」ということを、俗に言えば「誤解も理解のうち」ということを、是枝さんは承知している。
ここに、表現とメディアの微妙な関係がある。テレビが生番組だけで編成されるべきだと言うことには、もちろんならない。作品あるいは番組は、様々な時間軸により空間をデザインする。テレビはメディアとしてポテンシャルに即時性・共時性を潜在させると同時に、<日常時間>が構成するノンリニアーな場として番組を集積し伝送する。この二重の構造について、無自覚なまま「融合」に関わる諸問題が議論されているのが現状なのだ。NGNもIPTVも「情報通信法」も地デジも、そしてコンテンツ政策もそうなのだ。メディア論の不在。是枝さんには、この「不在」を撃つような仕事(制作と発言)を持続して欲しいと思う。それは、是枝さんの文章のもう一つの論点である「本来、その他者と接する場である(他者に開かれている)空間と時間は私の重要な一部であると同時に世界を形成する一部でもあるのだ」という視点に重なるはずだ。そこにパブリックを見るべきだということを、是枝さんは発見している。Yes。以前、僕はこう書いたことがある。「全ては他者(自分と異なる存在)を認めることから始まる。他者を認めない文明は野蛮に等しい。その意味で、文明と野蛮は反語ではない」(「メディア論ノート2002」(高度情報化社会のガバナンス・2003年NTT出版)。是枝さんの「再構成による中継の思想」は、マルチチュードの哲学と通底しているように思える。
「歩いても、歩いても」の最もテレビ中継的カットは、主人公一家をバス停に見送った老夫婦が、長い階段を昇りきってフレームアウトした後の、木陰が揺れる無人の階段であろう。そこに、老夫婦の死について主人公のモノローグが重なる。こうした映像は、映画でもあるだろうが、この映画ではとてもテレビ的な印象を僕は感じた。
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