
No103.
[放送事業者による<自前>の論理構築] |
2008.8.1 |
「月間民放」編集部から依頼があって、「総合的法体系」問題の原稿を書いている(9月1日発行予定・・・ご一読ください)。民放業界としての意見、個別事業者の考え方は、パブリックコメントとして提出され、既に公表されている。それとは別に、この問題の論点や課題を書くということの意味は何だろう。
放送業界に限らず、「業界」とは事業者の利益擁護、即ちエゴを集約する役割がある。エゴのない業界はないのであって、エゴは競争力のエネルギーとなるのだから、それを明確に主張するのは当然のことである。もちろん、エゴの主張はそれが社会的利益を反映し、またそれに還元されるという仕組が求められるということも当然である。その上で、業界は様々な戦略と戦術を駆使する。世論の支持を得るよう努めるだけでなく、パブリックコメントによる意思表示や政や官へ理解を求めるアクションも行われる。それも不当なことではない。通常、
透明性・公開性を担保しつつ
現実的「解」はこのようにして形成される。以前に、このノートに書いたことがあるが、とある省の幹部が「事業者は部分益を追求し、全体益は政府が考える」といっていたが、全体益つまり社会的利益との関係を考えなくて良いという企業や団体ありえないのである。それがCSR(企業の社会的責任)というものであろう。
しかし、そうした現実的「解」とは別に、もう一つ行為が必要なのだ。特に、放送のように、一般法とは別の法規制が課せられる事業においては、事業の存在理由について、例えば社会システムとの関係や基本的人権との関係、などのいくつかの基本命題と向き合い、それについての論理を構築し、常にレビューをする必要がある。基本命題の内容は異なるであろうが、医薬や交通などの事業にも共通するであろう。
「放送の公共性」とは、一般的に認められている概念であるから、そのことをエゴと社会的利益を結ぶキーワードとすることは、相応の説得力と効果を持つ。旗印・スローガンとして有効であり、政治的効果も高い。
ところで、何故「放送は公共的」なのか。
このことに応えるのは実は容易ではないように思える。周波数の使用を免許されているからなのか。免許事業として「あまねく普及」に努める義務を負うからなのか。事業として表現の自由を保障されているからなのか。非常災害情報を提供するからなのか。メディア環境が急速に変化しつつあり、「融合」論が一斉を風靡?している中で、放送事業者自身が放送というメディアの存在そのもの根拠を問い直し、放送というシステムの社会的意味を提示するという、些か厄介な仕事が求められている。これは、第三者には任せられない仕事である。
放送の公共性は定理であるかもしれないが、公理ではない。デジタルとインターネットは、放送における定理を成り立たせてきた条件の変化なのであって、従って放送の存在理由のためには新たな証明が必要なのである。
地上放送事業者は、自らを「基幹放送」と規定している。それは、他のメディアと比較してより多くの規制を引き受けることである。市場経済論の立場からは、何故規制を求めるのか理解できない、基幹メディアから解放されればより自由な表現が可能になるではないか、という声もある。このことにも答えなければならない。一方では、情報通信分野が成長し工業資本主義から知識産業型の資本主義に転換する必然性と、そのための規制緩和政策の一般的必要性は否定できない。そうだとすると、放送はそれにどのような関係を構築すべきだろう。「オレ達は特別だから放っといてくれ」といえば済むとは思えない。<自前>の論理構築が今こそ必要なのである。それは、現実的「解」とは別に、これからの放送のあり方の問題として、私たちが引き受けるしかないのである。
・・・というようなことを思いつつ「月刊民放」の原稿を難渋しながら書いている。法学者から見れば、稚拙な論理に見えるだろう。経済学者は、業界の特殊性に囚われていて市場が見えていないと思うだろう。しかし、どんなに稚拙で短絡していようと、まずは自分の力で考えることだ。稚拙や短絡は修正修復すればよい。業界が本当に「ただのエゴ」に陥らないためにも、限りなく一般理論として成立するような論理が必要なのである。
|