
No105.
[時代は自分では選べない] |
2008.9.1 |
オリンピックが終わった。 壮大な国家イベントを見ながら、「でも中国はこのくらいのことをやるんだよね」と思った。問題はこれからだ、と識者たちは言う。僕もそう思う。
結構のめりこんでテレビ中継を見たのは、水泳は北島の100mと400mメドレーリレー、女子柔道の谷本、女子ソフトボール、そして男子4×100mリレー、などだ。どれも、技能の粋といった感じで美しさがあった。その技能を身体能力の高い国の選手が身につけたら、勝負アリということになるだろう。日本人のコーチたちが海外から呼ばれるのも、そういった理由からだと思う。それは、もっと評価されて良い。僕の自説だが、古来西から来た文化が、この国で沈殿し純化され、繊細な技巧が日常を形作ってきたのだと思う。そのDNAのようなものが日本という社会を形成してきた。その延長に、工業製品からファッションまで、国際的に注目を集めた仕事あった。情報分野でガラパゴス現象といわれるような展開が進展するのも、国際的視点の欠落は問題だが、こうした条件があるからかもしれない。
オリンピックを見ながらそんなことを考えつつ、講演の準備をしている。TBSの教育研修部が「総務大臣表彰を受けたのだから、社員に何か話して欲しい」という。社内講演というのは難しい。外での話なら、いうべきことを、多少強引でも言い切ってしまえば良い。そもそも、関心の高い人たちが集まっている。しかし、社員向ということになると、聞きに来る人たちの目線が違う。「大臣表彰」というものに関心が高いとは思えない。興味の持たせ方から考えなければならない。そうはいっても、こういう機会はそうはないのだし、45年も籍を置いた組織だ。入社以来の僕の仕事と時代の変化と、そしてメディアへの関わりを出来るだけ具体的に話してみようと思っている。タイトルは、「テレビジョンに未来はあるか-私とテレビジョンとTBSの関係-」にしようかと思っている。
そういう話をすると、「前川サンの頃は、テレビが面白くて良い時代だったんですね」という感想が出てくるように思う。確かにそうかもしれない。だが、時代は自分では選べないのである。彼らの時代を僕が生きるわけには行かない。それは同じなのだ。その時代にどう向き合うかということにおいて良いも悪いもないのだ、といいたいところだが、「アウシュビッツへの道」(NHK)を見て、はたしてそういえるか逡巡してしまった。あの時のユダヤ人の人生、あるいはテロリストになるであろう今のパレスチナの少年の人生をどう考えればよいのか。
8月20日と21日の毎日新聞夕刊の文化欄に「秋葉原事件と時代の感性」という座談会が特集されている。そこで、大澤真幸氏は「2000年前後から、(メディアの)犯罪者への関心が急速に下がって、おおむね『変な人がいるもまだ。それよりセキュリティーだ』となってきました。」といい、東浩紀氏は「マスコミの言論が社会的包摂機能を失っているのではないか・・・ネットでは加害者への幅広い不定形の共感が見られた。」「ネットと従来のメディアの関係が、世代間格差に重ねあわされている。」と発言している。 メディアの「包摂機能」は「秩序維持機能」とは異なる。いま、メディアは時代とどう関われるのか、この問を抜きに「テレビに何が可能か」という問は成立しない。そこでは、むしろ「テレビジョンの不可能性」というテーマの方にリアリティーが成立する。
同じ座談会で、東氏は、<選べないものを選ぶ>
即ち
<あきらめて主体は安定する>にも拘らず、いま<現代社会ではそのあきらめの回路がうまく働いていていない>と指摘している。人は時代を選べない。それは確かだ。だが、「選べないものを選ぶ」ことを「選び返す」というならば、僕たちは(かつて村木良彦氏と会話したように)「テレビジョンを選び返す」ことからはじめなければならない。それが、シシュポスの岩か、賽の河原の石積みのような行為であったとしても、である。テレビジョンの可能性とはそういうことなのだ。
それにしても、例えばアウシュビッツでは、時代を選び返すという構造は成立し得なかった。歴史は過酷である。
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