
No106.
[
問が正しくなければ、まともな答えは出てこない/<個人>・<局>・<テレビ>の関係 ] |
2008.9.15 |
社内講演が終わった。少々疲れた。
「テレビジョンに未来はあるか」というタイトルにしたのだが、結語は「未来はあるか」ではなくて「未来をどう構築するか」であり、「誰も未来を約束してくれないのだから、それは自分で考えるしかない」という、当然の話をした。前回チョッと触れたように、僕の45年間のテレビとの関わりやTBSでの仕事を縦軸に、その時々のメディア状況とその論点を組み合わせて話したのだが、次から次へと言及したい事象が出てきて、準備作業はまるで連想ゲームみたいになってしまった。HDTV、BS、アナログ・デジタル、制度・政策、ネットとテレビ、社内・ギョーカイ・他ギョーカイ、などなど。未整理の部分や端折って話してしまったところもあり、聞き手がどう受け止めたかは分からない。が、いずれにせよ、社内講演なのでここで詳しい内容を紹介するというわけにはいかない。ただ、話を組み立てながら強く意識したのは、<会社>と<個人>
(と、そしてテレビ)
の関係とは何か、ということだった。以下は、もちろん一般論である。
経済環境が悪化し、広告費も減少し、テレビもその渦中にある。社員が「テレビは一体どうなるのだろう、テレビ局は大丈夫だろうか」と思うのは不思議ではない。しかし、会社がどうにかなることと、自分がどう生きるかということは意味が違う。社員に出来ることは、会社がどうにかなってしまっても、俺は大丈夫だと思うか、会社がどうにかならないようにどうすれば良いかのと考えることであって、どうなってしまうだろうと不安がってもどうにかなるものではない。日本の企業の多くは、まだ終身雇用型の企業風土のせいかどうか、会社と自分の関係が曖昧なままになっているのではないか。会社はゲマインシャフトではない。会社と個人は論理的には対等な関係なのである。もちろん、会社と社員の間に一体感が形成されることは望ましいし、それは一つの経営資源である。しかし、原理はあくまでも対等という関係だ。その対等性を具体化することが、
労使関係における組合の存在理由であろう。
しかし、労使関係では<仕事の意味>を問うことはほとんど排除されている。本来、労働の本質にはそうした意味が内包されているのだが、現実の組合運動は、労働条件だけが課題とされている。45年も同じ会社にいながら、
いまさら「会社と個人の関係などと、
そんなことを言えるのか」といわれるかも知れないが、少なくとも会社との距離感を僕は常に意識していた。
どれほどの意味があるかはともかく、どんなに接近してもそれはデュアル・スタンダードの関係なのである。この関係は例えどんなに気に入った組織であっても、そういうものだと思うのだ。
郷土や風土、民族などの概念は曖昧なのに帰属性の強い共同体型の集団でも、帰属そのものへの懐疑、あるいは喪失の自覚が必要なのであり、それが近代人の孤独というものだとすれば、それを忘れたときに人は
浪漫主義の陥穽に落ち込む。
話を戻せば、会社は経営資源(物的あるいは知的資本)の活用のために社員が必要なのであり、そのために労働条件を一定の水準にするのであって、社員の人生に責任を持ってくれるわけではない。この関係を「客観的に見られる」かどうかが大事なのだ。会社に選ばれた個人が会社を選び返す、すなわち仕事の意味を問うという自覚を経て、その上で、何をすることが会社の利益になるのかと考えることが必要なのである。
テレビ局においては、この関係に表現あるいは情報伝達という
要素が加わる。放送局が法人として「表現の自由」が認められていることとの相関で言えば、制作者たちは個人として何かを表現したいとしても、それはテレビ局の「組織=装置とシステム」を利用することになる。しかも、その「組織」は、企業としての放送局が所有するものである。この、<個人>と<組織=装置とシステム>と<企業>の間の様々なベクトルの中でテレビ的表現が選択される。こうした関係を正に客観的に認識し、個人と会社とテレビとの関係を考えることから、つまり、個人がテレビやテレビ局とキチンと向き合うことからテレビジョンの未来を問わなければ、何も見えてこないだろう。
かつてTBS闘争が問うたのはそういうことであり、テレビ局における<仕事の意味>を捉え返そうとしたのだった。その問は今も残されている。
免許事業として放送用周波数を占有することで、膨大な情報を日々提供するという行為に参加(あるいは加担)することの意味は小さいものではない。
ネットやモバイルの急速な普及、デジタル機器の登場、広告費のシフト、などテレビがメディアとしての機能を問い直される条件は
乱反射的に変化しているが、テレビ局の社員たちが、どういう立ち位置でこの「問
=自分とテレビとテレビ局の関係は何か」を発するかが問題なのだ。正しい「問」が提起されなければ、答えは見えてこない。この問を発することが出来る「幸せ」を、テレビ局の人間が自覚することが、社員としてではなくテレビに関わる多くの人たちとの関係を再構築するための条件なのである。
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