
No107.
[テレビの危機-変化は速い- ] |
2008.10.1 |
いま、テレビは危機の中にいる。それについて、とりあえずメモの形で問題意識を記録しておこうと思う 。
1. 第一の危機は、経済環境悪化に伴う大幅な広告出稿量の低下である。今年度のここまで前年比10%以上の縮小で、各局とも制作費の圧縮などの対応を迫られている。ローカル局では、デジタル化対応のための設備投資の減価償却がピークを迎えている局が多く、二重の経営負担となっている。
この広告出稿量の低下は、一過性のものではなく、広告環境そのものが変りつつあることは、経営レベルでも深刻に受け止められている。各局とも、放送外収入を重視し映画投資、ネットビジネス開発、不動産関連事業などに取り組んできている。しかし、今後も放送収入を軸にした経営計画が基本であり、そうでしかありえない以上、テレビの媒体価値の測定をどう見直すかが、極めて重要な課題となる。
2. 次に、地上放送のデジタル移行の際に、テレビ接触率が低下するのではないかということだ。2011年7月24日のアナログ放送終了は、アナログチャンネル変更の制度化に伴い電波法上規定されている。テレビ送信側は、地域の要望を踏まえたローカル局の努力により、ロードマップではエリアカバー率99%超の達成が想定されている。問題は受信環境である。
まず、アナログ終了の認知度を上げることであり、放送そのものによる周知が必要なことはいうまでもない。その上で、共聴施設の改修問題がある。これには二つのケースがあり、一つは辺地共聴である。もともと受信条件が良好でない地域では組合型や自治体設置の施設があり、特にデジタル中継局がアナログ受信点から変更されたことにより、相当程度の経費が発生せざるを得ないケースがある。もう一つは、マンションなどの都市型共聴であり、管理責任や建物の対応条件、居住者の同意問題など、複雑な要素がある。
経済弱者対策として、生活保護世帯を対象にチューナー等の支給策が具体化しつつある。しかし、受信機の普及に関する全体的な問題として、世帯普及は一定程度進んでいるが、サブテレビも含めた普及を想定すると、今後の展開は容易ではない。アナにログ終了段階で、テレビ接触率についてどういう変化があるのか、ケータイやパソコンによる視聴、録画視聴などをテレビ媒体力としてどう測定するのか、これは第一の問題と表裏のもう一つの課題である。
尚、「アナログ終了=デジタル移行を円滑に行う」とは、政府の方針であり、関係者もその通りだと了解しているが、同時に一定の混乱は起こりうるのであって、これを想定するのが危機管理だとすれば、そのための方針(対策方針・予算・組織、等)を織り込んでおかなければならない。
3. 第三はテレビのメディア力の問題である。メディア力には二つの側面がある。
(1) 情報空間の形成力
テレビは、最大現の視聴者を獲得するというメカニズムで圧倒的な強さを示してきた。それにより、情報の共有化による共通の意識空間を形成し、政治のメカニズムの構成要素となるとともに、社会の安全装置としても機能してきた。テレビ登場以後、情報空間はテレビにより構成されて来たといっても良い。
しかし、インターネットは個の情報発信を実現し、アナーキーな情報空間を創出しつつある。そして、そこにはテレビに包摂されない、あるいは包摂されることを拒む層(年齢あるいは社会的位置づけ)による支持があると分析されている。明らかに、情報社会のベクトルは変化している。また、インフラの成熟と情報流通は、テレビと違って多様な形態を許容するシステムとして成立している。テレビは、こうしたネットによる情報流通といかに関係するか、それによりどのような将来を選択するかを問われている。
(2) 問題提起能力
とはいえ、劇場型政治に典型的に見られるように、テレビは情報空間の形成能力は決して失われたわけではない。しかし、そのようにしか情報空間を形成できないとするならば、それはテレビ情報の情緒的傾斜による問題提起能力の衰退というを意味する。最大視聴者獲得原理を存在根拠とするという意味で、テレビは時代と添い寝をするメディアであることは避けがたい。それは、テレビの公共性の現実的前提でもある。そうであるが故に、ジャーナリズムとしての自己証明が求められるのであって、それは問題提起能力を持ち続けることなのである。現象を追い視聴者の関心に合わせるというのは、テレビにとって難しいことではない。そうであってなお、同時進行的に何が問題かに踏み込まなければならない。ライブ性をDNAとして持つテレビが、そのように踏み込むことは、それなりのリスクを負うことである。しかし、リスクを負いつつメディアとしての自己証明を引き受けることこそ、メディアとしてのインターネットとの差異に他ならない。
4. 硬派の時代と権力との距離感
世界史は、いま次のステージに入ろうとしている。そのとき、メディアはそれをどう切り取り、記録し、どう関連付け、どう表現するのか。表現とは、主体としての行為であり、記録には記録者も記録される。テレビは、組織である。個人的な表現意思と組織としてのテレジョンの葛藤がそこにある。
時代に添い寝をすることと、時代に正対することの双方を成立させることがテレビジョンの宿命だ。だから、硬派と軟派、真面目と遊びが混在する。テレビが硬派として時代に向き合うことを意識したその時に、免許事業であり、基幹放送の担保を制度に求めることの意味があらためて検証される。それに耐えられる論理をテレビは持っているだろうか。メディア(媒体という物理性ではなく、表現という行為の意味で)の「異議申し立て機能」は、いまどのように存在しているか。「インターネットの自由」を人々が知れば知るほど、テレビは社会の安全装置を引き受ける結果になる。その危うさにどれほど自覚的か。ここにも、テレビの危機がある。
5. ホールディング型経営
こうした状況の中で、持ち株型経営が一つの選択脂として用意された。その意味は、放送事業を軸にした垂直型モデルにより、日本の情報産業を拡張しようとすることにある。産業政策としての意図を了解し、企業としてのテレビ局はそれにより、コンテンツビジネス、ネットビジネスなどを展開する可能性が、制度上より容易になった。それはそれで良い。
もう一つの意味は、持ち株型経営により、放送部門はより放送に特化し、放送そのものに専念する経営を目指すことが可能になるというところにある。そのように、実態として機能するかどうかは、経営の意思による。放送局経営が、経営として利益の増大と経営基盤の安定を考えるのは当然として、併せて企業の社会的存在理由を提示し続けるということもその責任であると。そうであるするならば、持ち株型経営は、放送部門の位置づけを、こうした観点から明らかにすることが出来るはずだ。総合的法体系(情報通信法)を、産業論とメディア論の双方の視点で捉えることも、この持ち株型経営のあり方に繋がる。
ここまで述べてきたテレビの危機を、持ち株型経営は、一方では包括的に、他方では放送部門を特化することにより、「放送」の現在的可能性を自ら問い、自ら答えるための機会だと考えるべきなのだ。
それにしても、変化の速度は相当速い。数年前に比べても加速度的にメディア状況は変化し、その分だけテレビの危機も深まっている。こういう時代であればこそ、テレビジョンについての想像力が求められてれているのである。
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