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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No108.
[記録の意味-「お前はただの現在に過ぎない」文庫版再刊について ]
2008.10.15

 「お前はただの現在に過ぎない」(萩元晴彦・今野勉・村木良彦/1969.旧版・田畑書店)が文庫版で再刊された(朝日文庫)。早速手にとってみたが、何だか不思議な感じがした。予期したような感慨よりも、違和感のようなものが先に来た。手元にある、表紙は破れ、黄ばんで汚れた本が本物で、こっちはデジタル映像にしばしば感じるリアリティーの薄さがあるように思った。それも無理はない。あれから40年が経っているのだ。僕が感じたのはモノとしてのリアリティーであって、思想のリアリティーは別のところにある。再刊とはそういうもので、初めて読むいまの読者が、思想のリアリティーをどう受け取るかが大切なのだ。
 その意味で、解説で吉岡忍さんが、「・・・『小さな物語』に自閉し、自分勝手な小さな『起』と『結』を作って自足するのか、あるいは永遠に続く『承・転』のあいだで(<私>が-前川註)宙吊りにされながらも、問いつづけるか・・・」という表現で、鋭くもポストモダンの時代を読み取り、それをテレビ的表現として追求しようとした萩元氏たちの仕事を捉え返していることに同感する。僕は、「高度情報化社会の未来学」(2000年〜2002年)というプロジェクトに唯一の放送関係者のメンバーとして参加した際のレポートで、「インターネット時代のテレビジョンを考えるためには、『TBS闘争』で提起された『テレビとは何か』『テレビに何が可能か』という、『宙吊りにされた問』を取り出すことからはじめなければならない」と語ったことがある。もちろん、ここで僕の言う「宙吊り」という言葉は、吉岡さんの言う意味とは違う。しかし、「宙吊り」という感覚は、時代とテレビと<私>の関係で、一つの象徴的意味を持つのだと思う。
 そしてまた、村木氏への追悼として書いた文章(メディアノートNo91,92,93.ココをクリック)や『調査情報』(2008年3-4号)で、60年代末から70年にかけて村木氏の認識が、情報化社会とポストモダン状況という現代社会を先見的に読み取っていたことについて書いた。このことについても、吉岡さんの解説はとても的確に指摘しつつ、現在のポストモダン状況において「宙吊り」にされた<私>と「大きな現実」とを繋ぐ方法意識としての<知的技法>を、「いまのテレビジョンが必死に考え、発見し、作り出し、身につけて欲しい」と語っている。僕の個人的なテレビについての思いが、吉岡さんによって、当時と今とを結ぶ論理としてこのように書かれたことに、僕はとても納得している。何しろ、僕と「TBS闘争」は近過ぎるのである。
 いまこの本を読んだ読者たちが、40年前の「TBS闘争」という<テレビ的行為>を知り、そしてテレビの現在を受け止め、テレビジョンへの新たな視点を持つことが出来たら、文庫版の意味はそれだけで充分にあるだろう。但し、頭のよい読者は、本文を読んで考えるのではなく、吉岡さんの解説で分かった気になってしまうことが心配だ。
 ついでにいえば、文庫版のための註は、僕の時間感覚とのズレを感じた。編集者の年齢が分からないのでなんともいえないが、本文とはどうしても馴染まないところがあり、アアそういうふうに解説されてしまうのか、という思いが残った。今の読者を意識しすぎたのではないだろうか。ついでのついでに、「文庫版に寄せて」で、石井信平氏は文庫版として再刊する意義を書いていて、それはその通りだと思うし、また今野さんは、石井氏が「文庫化に労を取ってくれた」ことへの謝辞を述べている。あえて、一つだけ感想を言えば、石井氏は「今野勉氏は『TBS闘争』の当事者ではない」と書いているが、配転された萩元・村木の二人だけではなく、成田問題で処分された人たちだけでなく、解任された田英夫氏だけでもなく、あの時テレビジョンに関わっていた誰もが、つまりTBSの記者やディレクターはもとより、経営者も、組合も、TBS批判をした政治家も、「TBS闘争」の取材に来た記者たちも、その誰もが「当事者」だったと僕は思っている。それが、「TBS闘争」が「あなたにとってテレビとは何ですか」と問うたという意味であろう。

 ところで、文庫版には一箇所誤りがある。
 それは、第 I 章の冒頭の引用についてである。「私たちは今、己とテレビジョンとがいかなる関係に置かれているかという一つの論理を獲得することが、前衛党を一つつくるよりも、価値あることだとさえ考えてよいのではなかろうか」(M)という文章についての注で、その筆者を村木氏だとし、出典は「TBS闘争後の諸状況について-その2」としている。尚、(M)という表記は初版本にはなく、10年後(だと思うが)の再版の際に付け加えられたという。
 この文章は僕が書いたもので、そのことを村木氏は『テレビジョンの歴史と地理』(「映画評論」1969.5./ 『ぼくのテレビジョン』田畑書店1971年所収)に「私の友人前川英樹の指摘」と書いている(『ぼくのテレビジョン』166ページ)。このことを今野さんに話をした。
 確かに、出典の文書を読めば、その筆者はMと署名されている。また、萩元・村木の両氏は「TBS闘争」敗北のときに、「HとなりMとなる」と表明していたことは、その通りであったので、文庫版の注として今野さんはこのように書いた。しかし、出典文書にはM署名の文書は二つあり、一つは村木氏のもの「クローズアップとロングショット」だが、もう一つの「混沌(カオス)を凝視めて」(原文ではカオスはルビ表記)という文章の署名Mは前川である。そこに、「・・・前衛党を一つつくるより・・・」と書かれている。僕自身、自分の書いたものだという記憶があるが、それを何処に何時書いたのか確定できなかった。今回、手元にある「TBS闘争後の諸状況について」を読み直して、問題意識のあり方、文章構成、引用されている文言(例えば、埴谷雄高の言葉)等から、自分の記憶だけでなく、執筆者が前川であると客観的にもいえると思う。この資料集は、「TBS闘争」が終了した後、「このまま、この経験を風化させることこそが敗北なのだ」と思っていた限られたメンバーが、ひっそりと数回の会合を重ねたときの討論資料だった。当時の関係資料や関係者の総括文書集で、その1(黒本)とその2(赤本)がある。社内状況などを考慮し、個人文書はイニシャル表記となっている。
 自分の書いた40年前のものをみて、いかにも生硬だと思うけれど、一方では「テレビとは何か」という問いがあり、他方では当時の思想状況、組織と個人/政治と文化の交点を求めるという思考があり、その両方が強く意識されていた。そのことが、前のめりになってこのように表現されたのだ。また、四分五裂といわれていた当時の新左翼の政治組織は、どれもが「前衛党の建設」をスローガンとしていて、それは内ゲバから「あさま山荘」へとつながっていく。この「・・・前衛党を一つつくるより・・・」という表現には、そうした政治的発想への批判という意識もあった。文化は政治の風下ではないという「TBS闘争」に見られる問題意識は、既成の労働組合や政治組織への批判としてだけではなく、「テレビとは何か」という問いの根底にあった。こうした背景から生まれる論点は「お前はただの現在に過ぎない」の随所に、何人かの発言や声明として記録されている。いや、この本の根本命題がそこにあるといってよい。それにしても、自分の書いたものを40年を経てこのように解説するというのも、妙な気分だ。だが、概ねこういうことなのだ。

 ここまで書いて、もう一つ疑問が出てきた。それは、「あなたにとってテレビとは何か」という問いは、「TBS闘争」のどの段階で最初に明示されたものだろうということだ。そう思うと一つの情景が浮かんでくる。それは、「TBS闘争」の初期に報道局から会社に対して膨大な(90項目ほどあったような気がするか)「公開質問状」が出されたことがあった。それを読み上げたのは萩元さんだったと思う。その質問状は、心情あふるる論理性とでもいってもいったらいいのだろうか、聞いていて感動的でさえあったと記憶する。おそらく原文作成は村木さんとの共同作業だったろう。その中に「あなたにとってテレビジョンとは何ですか」という問いがあったのではないだろうか。あっても不思議ではない。これは、僕の推論だ。この段階では、報道局職場は組合活動の一つの単位であったから、TBS労働組合が「組合速報」等に掲載した可能性がある。保存されているだろうか。
 「お前はただの現在に過ぎない」に引用あるいは記録されている発言や、文章のうち、「中間総括メモ」(これも「TBS闘争敗北後の諸状況について-その2」で、村木氏が「私にとってのTBS闘争」の中で「前川報告」として取り上げいる(「僕のテレビジョン」に同名の文章として所収)、「教養部職場アピール」(第 II 章の冒頭引用文)、「闘争拡大宣言」、「無効確認声明」の執筆者も僕だ。ティーチインにおける発言者のMのいくつかは僕だ。但し、僕自身は、「お前はただの現在なすぎない」で、それらが前川ではなくM乃至は執筆者不特定のままでよいと思っていたし、文庫版再刊についてもそう思っている。名乗るべき理由はない。
 ただ、今野さんと話をしていて、記録というものは、可能な限り事実を明示することで、より多くの記録や記憶が呼び起こされることになり、それがさらなる記録として構築されることから新たな歴史が現れるものだということを感じさせられた。そして、それは僕個人のテレビ的行為の意味を自ら考えるための契機でもある。これは「お前はただの現在に過ぎない」で、どう表記されるかという問題ではない。
 もちろん、墓場まで持っていかなければならない真実というものもあるだろう。しかし、ここに書いているようなことは、そういうものではない。テレビジョンの現在、あるいは僕にとってのテレビジョンを考えるという視点から、それがどれほど意味のある事実かはともかく、僕が知っていることをテーブルの上に出しておいたほうが良いだろう。そう思っている。数少ない村木さんとのメールで、村木さんは「『TBS闘争』の私的総括や『反戦+テレビジョン』のことも含めて、『テレビジョン個人史』を出す予定だ」、と書いていた(2005.4.19.)。それが実現しなかったことがとても残念だ。それは、誰かが代わって書けるものではない。だが、誰かが、それは僕かもしれないが、夫々にテレビについて書くときの記録としての意味はあるだろう。僕には「TBS闘争が近すぎる」といったが、そうすることで漸く少し距離を置いてみることが出来るのかもしれない。それとも、僕にとっては「近すぎる」ままの方がよいのだろうか。

 今野さんとは、「間違いについてはどこかで書くし、二刷があれば訂正しましょう」ということでその話は一区切りし、テレビマンユニオンの近くのワインバー風の店に行った。今野さんとこんな風にゆっくり話をするのは、なんと初めてだった。当然村木さんの話題になったのだが、そこで気がついたのは、当然のことながら今野さんが語る村木さんは「平場の目線」であり、僕のそれはどうしても「上向きの目線」だということだ。村木さんとは極めて限られた(上述メディアノート参照)、しかしとても濃密な時間を過ごした間に、僕と村木さんは二人のメモを対置させた文章をいくつか書いている(例『月刊労働問題』1969.8.『反戦+テレビジョン』所収)。今読み直すと、どちらが書いたか分からない箇所がいくつかある。村木さんとは、ある部分でどこか思考回路が共通していたところがあったのだろう。その一つは、内発性=意識の内部に根拠のない思想(そもそも思想とはそういうものなのだが)は認めないということであり、したがって、常に思考の原点として<個>があるということだった。但し、村木さんの書いた部分は明確な断言とそれに向き合う強い意志があるのに比べ、僕の書いたものは書くことそれ自体で(それも行為ではあるが)完結していて、どこかに不可能性を含んだ微かなエクスキューズの痕跡がある。だから、論理の客観性と選択のズレを許容することになる。その点で、村木さんはすぐれて直接的なのだ。若き日の詩人吉本隆明の詩に「ぼくが倒れたら、一つの直接性が倒れる」という一節があるが、それを思わせるところがあった。その後の村木さんの軌跡の困難性もそこにあったのだと思う。同じ問題意識であっても、その射程の幅と深さにおいて、どうしても僕は「上向き目線」にならざるを得なかった。だから、「僕は野育ちだから、そこが村木と違う」という今野さんの村木像は、とても興味深かった。今野さんの思考は、映像も文章も、感性も論理もとても身体的で、それが魅力なのだと思う。

 「TBS闘争」が終焉したとき、萩元・村木の二人は「あなたに」という詩形式の声明を出している。僕はそれを切り抜いて会社のデスクに貼っておいた。それを剥がしたのは、14年後に村木さんと再会したときに、村木さんがとてもサラッとTBS闘争のことを語ったときだった。トゥデイ・アンド・トゥモロウという新しい拠点で仕事を始めたということもあったのだと思う。ああ、この人は乗り越えてしまったのだと思った僕は「あなたに」を剥がし、新しい仕事に向き合ったのだった。14年間封印していた何か、例えば「TBS闘争のことは、誰とも語るまい」というような、そうした何かが解かれた。しかし、それは「テレビとは何か」「テレビに何が可能か」という問いが消えたことではない。14年の沈黙の中で、そうした問いを辛うじて風化させずに、何とか耐えられたように思う。もちろんその結果、自分の中でアンビバレンツな意識を常に背負うことになる。その後、僕は仕事においてこのことをあらためて強く意識することになる。そして、「宙吊り」のままだった問いの、<私>の再検証をこれからも続けたいと思っている。

 今野さんとの会話で、そんなことまで思い出すことになった。村木と前川のイニシャルがともにMだったという偶然から生まれた「ありうべき一つの間違い」がなければ、このようなノートを書くこともなかっただろう。いま、記録を構成することの、難しさ、不思議さ、面白さ、そして記録することの意味について、考えている。



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