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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No109.
[私的解読・・・「存在論的・テレビ的」]
続・「お前はただの現在に過ぎない」文庫版について
2008.11.1

 「お前はただの現在に過ぎない」文庫版を読み終わった。読み出した途端に躓いて、そこから古文書のような資料をひっくり返したり、思い出したことなどがあったことは、前回書いた。その補足は後で触れる。
 少し体制を立て直して、できるだけ丁寧に読んだ。僕の場合、この本のページを繰ると個人的に深く関わったところが前面に出てきてしまい、その濃淡に捉われて、なかなか突き放して読めなくなる。そうした気分を出来るだけ抑制するように努めて読んだ。以下は、解説ではなく、私的(やはり私的であることは仕方がない)解読である。

[I]

 何よりも、こちらに刺さってくるのは次のくだりだ。

「ところで、ぼくらは、なぜ問うたか。テレビジョンになにができるかとなぜ問うたか。問うた目的はこうだ。
<テレビ的表現>はありうるか。
あるとすれば、どのようにそれを可能たらしめたらいいのか。
稚いところに立っているものだ、ぼくらは。しかし、立ってしまっていることには違いないからやむをえまい。
<テレビ的表現>はありうるか。」(448ページ/文庫版ページ・以下同じ)
(「稚い」は「{オサナイ}、原文はルビ表記)

 この本の構成として、ここに至るTBS闘争の状況とその論点を巡るドキュメントは、68年の内外の状況を挟みつつ、このフレーズに収斂され、そしてここから、質問「テレビに何ができるか」に対する回答をいくつかはさんで、最後の<お前はただの現在に過ぎない>の項へ一挙に展開する。この<テレビ的表現はありうるか>という問題意識の再確認は、「テレビは非芸術・反権力」という断言肯定命題に集約していくための強いアクセントになっている。特に、「稚いところに立っているものだ、ぼくらは」という一行が、とても切実だ。「幼い」ではなく、「稚ない」と何故書いたかを推し量れば、そこに若いテレビジョンへの希望を読み取ることもできるが、同時に、そのことをいま問わざるを得ない「拙さ」や、この問を真っ当に受け止められない「もどかしさ」があったのであろう。ひょっとしたら、「稚い」という言葉には、村木氏の配転理由について、会社が「村木君はまだ幼い(「稚い」と書いている資料もある)」 (68ページ)と言ったことへのアイロニーがこめられているのかもしれない。
 そこには、テレビに関わってしまった者が、テレビと向き合うことで見出した卒直な問題意識がある。つまり、そのように問うてない者は何をしてきたのか、それなくして何故テレビにいられるのか、とも。文庫版「あとがき」で今野さんは、萩元、村木、今野の三人がテレビマンユニオン結成あるいは参加に至るそれぞれの経緯が異なっていたことを書いている。僕の記憶では、「お前はただの現在に過ぎない」が初版から10年後に再刊されたときの「あとがき」で、「その後、三人でTBS闘争のことを語ったことはない」というようなことが書かれていたように記憶する。
 だが、1968年の段階で、「<テレビ的表現>はありうるか」というこの一点で、三人の意識は共通している。それが、この本を成立させている。このことは、僕にとってはほとんど疑う余地のないことだと思っていたが、文庫版を「構成的に」再読してみて、あらためて確認したのだった。そして、テレビジョンは「稚い」ままに、40年が経った。

[II]

 <テレビ的表現はありうるか>という問いの再確認の前に、彼らは「ぼくらは、テレビが<時間>であることを知っている」と書いている(447ページ)。そして、<時刻><時間を共有>すること、<持続>、<日常>、<俗>=時たまの<聖>に禊をする暇のない応対、などについて語っている。
 記録より伝送が先行した電子メディアにとって、<時間>性はDNAのようなものだ。そうであるが故に、<非芸術・反権力>という認識が生まれる。この<時間>=<非芸術・反権力>とい「危うい特性」は、放送というシステムが他のメディアに比べて圧倒的な情報空間の形成力を持ちうることとの関係から、放送が免許制度下におかれた本質的な要因だと考えられる。放送免許の根拠とされている、周波数の有限性や混信の防止という物理的条件だけでなく、あるいは「社会的影響力」というものが情報内容の問題としてだけではなく、こうした電子メディアそのものに内在する根本的な<危うさ>を、政治は先見的乃至は先験的に知っていればこそ、放送を免許の対象にしたのだと考えてよい。
 この本で、「テレビは体制として機能している」という認識がしばしば示されている。それはそのとおりであり、<日常>的に反体制的テレビというのは存在しえない。テレビはマスメディアの中で、とりわけ「想像の共同体」(B.アンダーソン)としての近代国家と関わりあうメディアである。その意味で、つまり「時間の空間化」という機能により、テレビは優れて<日常>的な場を<政治的空間>に構成するのである。
 だが、<時間>性というテレビジョンのポテンシャリティーが、テレビ局の意図や政治的思惑を超えて、<時間そのもの>に立ち返ってしまう瞬間がある(例えば、[9.11.]のテレビ中継)。まさに、メディアがメッセージになるのである<時>である。そのとき、表現者としてのテレビマンは、現実の何を「見る」(見せるのではない!)のか、それがこの本の通底奏音なのである。そうだとして、<テレビ的表現>と<テレビは時間である>ということは、どのような関係なのだろうか。
 著者たちは、続けてテレビが<組織・機構>であり、<施設>であること、したがって<私のテレビ局>はありえず、<テレビマン>はまず<就職>しなければならない、とも書いている。つまり、テレビ的<時間>は、テレビ局の<組織・機構><施設>によって管理されるものであり(放送局免許が無線局に対する施設免許だということは、その意味で実に象徴的だ)、テレビ局に<就職>することで、テレビマンは<テレビ的表現>の場に立つことが認められる、という構図になる。この自家撞着的構図を乗り越え、<ただの現在でありたい>というテレビジョンを可能にするのは、「テレビの機能と己をかかわらせた新しい表現者、テレビマンであろう。彼らのかかわる<現在>とは、そのとき、物理的現在ではなく、彼らの<内なる現在>であるだろう」というのが、本文最後のフレーズであるである。
 テレビジョンの思想としては、まことにそのとおりであろう。だが、現実的にそこにどのような行為が成立するだろうか。それを、この本に求めるわけには行かない。それこそが、テレビに関わってしまったものが、自ら応えなければならないからだ。
 著者たちが、夫々の理由でテレビマンユニオンに参加したことは、そのための選択であり、参加しなかったものはその理由も含め、そしてテレビマンユニオンのことなど考えもしなかったとしても、それは別の選択なのであった。
 わが身のことをさておいて言えば、テレビマンユニオンが設立時に中継車を確保したことに、彼らの思想を読み取ることは不可能ではない。だが、それだけでプロダクションが機能するわけではない。そこから<テレビ的時間>とどう関わりうるのか、という問題が生ずる。ここから先は推測するしかないが、テレビ局を離れ尚且つテレビジョンに関わろうとする中で、<テレビ的表現>と<テレビ的時間>の関係を、<テレビ的行為>という論理で包摂しようとしたのではないか。そうだとすれば、「自分のいるところがテレビジョン」であるという意識は、局の内か外かを超える視点を形成しうる。このことが、「お前はただの現在に過ぎない」という一冊の本から、「現場の思想」だけではなく、総体としてのテレビジョン、すなわち文化でありかつ商品であるテレビ番組、政治の遍在を引き受けることで、民主主義の大衆化から劇場型へと推移するテレビジョン、そしてテレビ局経営とは何か、テレビ批評の意味、情報技術とテレビの関係性、メディアに関する制度・政策、メディアを巡る政治力学、などなどの現在的課題を読み解くことを可能にすると考えられる。

[III]

 これも「あとがき」で今野さんが書いているが、この本の出版企画は68年7月だという。それは、労働組合の闘争としては終焉を迎えていたといって良いが、「テレビとは何か」という問題から闘争に関わろうとしていた者にとっては、渦中といって良い、そのような時期である。翌年3月には、本として出版されたということは、すごいスピードで走りながらつくられた本だ。日付のある資料で最も新しいのは、69年2月4日の「無効確認声明」である(358ページ)。出版1ヶ月まえで、普通なら校正の最終段階といったところだろう。この間、著者たちが参加したパネルディスカッションの抜粋、海外も含めた資料・ニュースの収集、相当数のインタビューとその編集、「テレビに何ができますか」という質問と回答の集約、など。今野さんは、「三人で、テレビのような本を作ろう」といったと言っているが、作業工程そのものがテレビ的という感じがする。ゴダールの発言をインタビュー構成に取り込んでしまうところは、作業のノリを感じる。
 特に、69年1月の、東大安田講堂における機動隊による学生排除の現場からの生中継で、NET椿記者の行動(=表現)は、[I]で述べた<テレビ的表現>、あるいは「テレビは見せることではなく、<見る>ことである」という問題意識を再集約するためには、欠かせないものであった。そう考えると、東大闘争の時期がずれていたら、この本は違う構成になっていたと思われる。もちろん、ドキュメントとはそういうものであろうが、状況と作業のスリリングな緊張があったはずだ。ただ、そのことが今の読者にどう伝わるか、多分そのようなことはあまり(全く?)意識されずに、別の読み方が成立するのだろう。しかし、著者たちの意識は、このようなものであったと考えられる。

[IV]

 TBS闘争そのものも、したがってこの本も、1968年という時代が色濃く塗りこめられている。1968年とはどういう時代だっただろうか。
 この本にも、海外ではフランス放送協会(ORTF)の闘争やカルチェラタンの学生運動など5月革命と呼ばれる状況があり、チェコではドブチェク登場を契機とした「プラハの春」が訪れたことが織り込まれている。この時期、社会主義圏は短いが、しかし鋭い動揺を経験する。中国では、「文化大革命」による毛沢東の権力奪還が「造反有理」のスローガンの下に急速に進行中だった。国内では、東大、日大など全共闘が党派的学生運動を乗り越える動きがあり、マスコミではNHKの日放労長崎分会が中央とは独自の闘争を展開していた。これらのことは、テレビジョンとの大きなかかわりとして書かれている。その他、国内ではべ平連(「ベトナムに平和を!市民連合」)と「反戦青年委員会」が、夫々に独自の闘争を展開していた。海外ではベトナム戦線におけるベトコン(南ベトナム解放戦線)のテト攻勢、アメリカのキング牧師の暗殺もこの年である。
 第二次大戦後に、東西冷戦構造が出現したが、戦後的な不安定要因はまだ顕在的且つ潜在的に蓄積されていて、この年にそれが「同時多発的」に噴出したものと考えられる。その大きな要因は、一方ではアメリカのベトナム侵略であり、他方では国際的な旧左翼(本家型)の指導力の低下(「前衛党神話」の崩壊)である。特に後者は、実存主義的発想による自立志向を経て、政治的新左翼からさらには党派的思考の拒否へと展開される。思想界では、構造主義やポスト構造主義もこうした流れに位置すると考えてよいであろう。戦後の経済復興から経済成長へという過程における社会構造の変化による大衆社会化=「マス化」は、個人意識の不安定性を醸成し(テーマとしての疎外)、こうした社会的・思想的状況が、ノンセクト・ラジカルという運動や自己否定という論理を世界的に形成さしたのではないか。
 そうした動向がありつつも、結果として、国際的にはスターリン批判後のスターリニズム(ブレジネフ体制)と資本主義経済の成果が折り合うことで、およそ20年の間、ベルリンの壁崩壊まで、安定的冷戦構造は継続することになる。国内的には急速な経済成長が、全てを水面下に押し下げてしまった。
 「お前はただの現在に過ぎない」で、たびたび「文化は、政治の風下ではない」というフレーズが登場するのは、当時の民放労連の方針が、ある政治組織の方針をそのまま反映していることへの批判だけではなく、「政治的であること」そのもの、あるいは組織に依存することで意思表示すること、に対する懐疑から問題を捉えようとする意識の顕れであったのだ。ゴダールが登場するのは、もちろん表現の思想という視点からなのだが、状況としては以上のような背景があったと考えられる。ついでに言えば、いま、団塊の世代や全共闘についての議論があるが、60年代を総体的に、あるいは、それを梃子にてもう少し射程を広げた「戦後的なるもの」についての、再考察が必要であろう。そこを欠落させたままだと、ナショナリズムへの回帰に埋没しかねない。

[V]

 「お前はただの現在に過ぎない」には、様々な人の発言が登場するが、そのなかで内村剛介氏のウェートが特に高い。それは、何故か。
 内村氏は、本文で触れられているように、特異なソビエト体験をした人である。ソ連抑留の日本人は少なくないが、内村氏は犯罪者として刑務所に収容されている。この内村氏へのインタビューを、何故この本で重要な位置に置いたのだろうか。いうまでもなく、個として、個であることによってしか、過酷な状況を耐えられなかったという経験であり、またスターリン体制化のソ連を、極限の状況で<観察>し切った人だった、ということであろう。
 68年当時、内村氏はそれほど広く知られている人ではなかった。たまたま、僕は書評紙で知ったと思うのだが、「生き急ぐ-スターリン獄の日本人-」(1967年三省堂新書)を読んでいた。その内村氏が、チェコの自由化とそれに対するソ連の反動をどう見ているかということは、テレビあるいはラジオというメディアが、政治状況の中でどのようなポジションに置かれるか、そしてその時そこに関わる人たちは何を選択し、それはどういう意味があるのか、そしてそれは個別特殊なことなのか、TBS闘争で問うた<テレビとは何か>、<テレビ的表現はありうるか>という問とどう関係するのか、に繋がる。
 この本で、内村剛介氏を登場させたことは、テレビ論的発想や、そこに世界的な状況を織り込むという構成を超えた<重み>、あるいは根源的問いかけとして、極めて大きな意味を持つ。
「テレビは非芸術・反権力」という断言のためのキーワードである「as it is(あるがままに)」という言葉は、「アズ・イット・イズ(あるがままに)」として内村氏から発せられている(442ページ)。そして、内村氏の指摘で最も興味深いのは「テレビには、副詞もなければ接続詞もない」(442ページ)という一言だ。テレビの「文体」を鋭く見抜いている。
 最近、メディア状況について興味深い発言をしている東浩紀氏に、「存在論的、郵便的」という著書があるが、「お前はただの現在に過ぎない」は、内村氏を登場させたことで「存在論的、テレビ的」になったといえるだろう。ともあれ、68年の時点で内村氏のインタビューに重要な意味を持たせたようとしたことの洞察力に感心する。
 「存在論的、郵便的」は、東氏の他のメディア論や状況批評の著述に比べれば、本格的なジャック・デリダに関する学術論文であり、さすがに読むのは容易ではない。書架に収まったままだ。タイトルだけ拝借した。

[VI]

 「お前はただの現在に過ぎない」は、本文によれば、トロツキーの言葉として紹介されている。トロツキーの言葉、即ち思想をタイトルにした意味は何だろう。もちろん、「お前はただの現在に過ぎない」という言葉が、著者たちのテレビ論を象徴する一言だといえば、それで充分なであって、取り立てて説明する必要はない。しかし、そうはいっても、その言葉の時代的な意味を考えてみても良いだろう。
 その時代、トロツキーはやはり特別の存在だった。スターリニズムという旧左翼(正統派?)の閉鎖的支配(政治組織とはそのようなものかもしれないが)への批判は、知識人と呼ばれた人々はもとより、左翼組織内でも表面化しつつあった。一国社会主義のスターリンに反対して永続革命を主張し、スターリンに追放され、メキシコで暗殺されたトロツキーの再評価が政治的にだけでなく、思想的にも行われていた時代だった。文学的素養があったトロツキーの自伝「わが生涯」などはかなり広く読まれていた。その分だけ、既成の左翼政治組織からは、絶対的に排除されるべき存在だった。本文に出てくる「トロツキストは許せない。理由は、トロツキストだからである」という同義反復的言辞は、そういう背景にあるものだ。尚、本文中に「代々木系」なる言葉が登場するが、これは日本共産党の本部が代々木に置かれていた(現在も)ことから共産党系という意味であり、これに対して反共産党系左翼は「反代々木」と総称されていた。
 革命というものが、フランス革命、ロシア革命、中国革命、キューバ革命など、いずれも成立当初は人を感動させたものであり、そこにはそれなりの理由があるのだが、革命が一つの制度として定着すると同時に、そのダイナミズムは固定され、権力の維持に転化する。しかし、変化の持続を求めるが故に排除された思想は、反抗の糧として受け止められる。トロツキーは、その時代にそういう存在だった。
 「お前はただの現在に過ぎない」が、「テレビとは何か」、「テレビ的表現はありうるか」という、テレビが存在する限り継続するであろう問いに与える表題として、トロツキーの言葉を用いたのは、そのような意識があったと考えられる。
 さらに、ここで引用されているトロツキーの言葉は、政治思想家アイザック・ドイッチャーの著作によるものである。ドイッチャーは「スターリンにたたきつぶされたポーランド共産党」(中岡哲郎「現代における思想と行動」三一新書・1960年)の革命家であった。「お前はただの現在に過ぎない」というタイトルには、ドイッチャーを通したトロツキーの言葉という二重の意味で、「永続的なるもの」を追求すること、即ち政治的なるもの以前の根源的欲求と、それを「形」にする困難さがこめられている。但し、トロツキーは反政治的ではなく、まさしく政治的に社会主義ソ連と向合っていたのであり、仮にスターリンとの抗争に勝利したとしても、ソ連の社会主義を解体させることなどありえなかったであろう。社会主義下の権力のあり方の問題として考えれば、結局トロツキーが権力掌握したとしても、スターリン型の政治支配がどこかの時点で成立したであろう。未完の革命に向けての情熱と政治のリアリズムは常に相克する。
 だが、だからといって「お前はただの現在に過ぎない」という、若きトロツキーが語った言葉の意味が失われるわけではない。一つの時代において、ある思いを仮託した言葉というものは、その言葉が発せられたときの輝きにあるのである。そこに、微かに「敗北の美学」が感じられるにせよ、である。

[VII]

 TBS闘争は敗北で終わった、ということになっている。それはその通りだ。成田処分も萩元・村木の配転も田英夫降板も、全て覆せなかったのだから、それは敗北であった。では、闘争目標のこの三点について、仮に会社が意思変更をしたら、勝利だったのだろうか。答えは、もちろんNoである。
 TBS闘争を「テレビジョンとは何か」という闘いであると考えた時に、それは敗北だったのか。若し、そのような闘いを労働組合の闘いとして、あるいは組合とは別の組織運動として組もうとすれば、固有の運動論と組織論がなければならない。しかし、文中の言葉を借りれば「表現派」(249ページ)は、そのようなものを求めなかったし、その力量もなかった。そうであるとするならば、では何をもって敗北というのか。そして、何をもって勝利というのか。
 今にして思えば、「放送労働者」(この言葉は死語に近いが)と「表現者」が何処で交点を結ぶかという問題を立てながら、その関係を見切れなかったこと、そのことが<表現派>のテレビ論的限界だった。そして、「ティーチイン」の中断と10波ストの中止を決断した当時の組合副委員長の「政治的判断」(この判断は、「会社と組合を混乱から救った」という観点で見れば、非常に”高度で狡猾な”リアリズムだったといえる)に拮抗する現実を対置できなかったこと、それが運動論的限界だった。そして、この二点を総括=論理化できなかったことが、TBS闘争の敗北だったのだと思う。
 いまこうした評価にどれほどの意味があるかといわれれば、しばしの沈黙に陥らざるを得ない。しかし、「あなたにとってテレビとは何か」、「テレビに何が可能か」、「テレビ的表現はありうるか」という問いを明示し、それをテレビに関わる人間がその問いを問わないことを撃ったということ、その問いは今も充分に意味があること、そしてそれぞれに今もその答えを求めてやまないこと、こうした「宙吊りにされた問い」を「宙吊りにされた<私>」(文庫版解説の吉岡さんの言葉を借りれば)の問題として、2008年の現在に置きなおすこと、それが40年を経て、「お前はただの現在に過ぎない」が再版された意味である、ということはいえるであろう。

 ここまで書いてみて、これは一体何のための作業だったのか、誰のための文章なのかと考えてしまった。文庫版を再読して思ったことに違いない。が、結局のところ、「お前はただの現在に過ぎない」という一冊の本が、僕にとって何だったかを確かめる、そのための行為であるとしか言えない。ここまで、このノートを読んで下さった方には、甚だ身勝手な書き物に付き合っていただいて、申し訳ないような気がする。
 しかし、<私>がテレビジョンに関わってきたことの原点は何かと問われれば、まさにここに書いてきたようなことに、どう決着をつければいいのかということだったのだ。その決着はまだついていない。それともう一つ、文庫版の「注」にいささか憮然として、この際「知っていること、思いついたことは全て書いてしまえ」という気分になったことも、正直に言えば確かにあった。

 前回は、極めて私的メモではあったが、そこにさらに私的感想と若干の補足を加えておきたい。

(1) 公開質問状
 公開質問状について「90項目ほど」と書いたが、それは57項目だったことが本文に書かれている(176ページ)。念のため、その全文が残っているかどうか、TBS労働組合書記局で調べたところ、関係資料集のファイルの中から見つけることができた。社長宛文書で、提出者は報道局テレビ報道部(手書き訂正で「職場集会」と補足されている)。日付は3月とだけ書かれているが、「組合速報」では、3月19日に会社に対してテレビ報道部の「公開質問状」を提出する、と記録されている。同時期に制作局第一、第二制作部の公開質問状が出されていて、こちらは3月11日、また制作局教養部の職場アピールは3月14日である。
 それにしても、57項目というのもなかなか凄い。その内容は、萩元・村木の配転問題を焦点にしたもので、その経緯と会社の説明について、極めて論理的にその不透明性と矛盾を徹底的に追及したものである。会社として、この「公開質問状」に回答する意思はなかったであろうが、仮に回答しようと思ったとしても答えに窮したであろう。
 書かれているかも知れないと期待していた「あなたにとってテレビとは何ですか」という質問はなかった。因みに、交通事故で療養中だった村木氏が、人事異動発令後に初出社したのは4月10日(174ページ)、TBS闘争発生後の村木氏の発言として「あなたにとってテレビジョンとは何か・・・」という記録は4月19日である(177ページ)。TBS闘争において、どの時点で「テレビジョンとは何か」ということが、闘争のテーマとして共有化されたのかは不明である。
 尚、組合保管文書の中に、「闘争拡大宣言」もあり、これも再読した。これはぼくが書き上げたように思っていたが、読み直すと、かなり色々な人の手が加わったものではないかと考えられる。やはり記録(とその保存)は大切だ。TBS労働組合の記録整理はかなり丁寧なものだった。

(2) 吉本隆明の詩
 前回1行だけ引用した吉本隆明の詩は、「ちいさな群への挨拶」(「転位のための十篇」1952〜1953/「吉本隆明詩集」思潮社1963.所収)である。
全体で55行の中編詩で、その後半に以下の4行が置かれている。

ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる
ぼくの肉体はほとんど過酷に耐えられる
ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる
もたれあうことをきらった反抗がたおれる

 僕の知っている村木さんは、やはりこのような精神の人だったのではないか。
 「吉本隆明詩集」に掲載されている「吉本隆明論」で、鮎川信夫は「彼は、今後も反逆的モラルの詩人として、あくまでもその孤独をつらぬきとおすであろうか。あるいは、力をゆるめた安堵から、もっと人間性の限界と不完全さを受け入れるようになり、おもむろに寛容と平和の世界へと移行するようになるであろうか。いずれにしても、思想詩人としての彼の骨格が、そうやすやすとかわるとは思えない」と書いている。
 テレビジョンを思想として考え続けたテレビマン村木良彦の骨格は、そうやすやすとは変わらなかったことは確かである。

(3) ガウディーの教会
 村木さんのテレビ論は、結局のところ「疾走しながら叫んだいくつかの断片」(「ぼくのテレビジョン」・はじめに)として残された。村木さんが書こうと思っていた「テレビジョン個人史」は、ついに書かれることはなかった。村木さんが残した言葉を組み立てて、村木的テレビ論を後追いしようとしても、まるで設計図を残さずに死んだガウディーの教会、サクラダ・ファミリアのようなものだろう。設計者の意図を推測しつつ残されたものが建築を続けても、何時になっても完成するということがない。テレビジョンとはそのようなものであるのだ。

(4) 無関心な人々
 内村剛介氏のことを書きながら、もうひとつの言葉を思い出した。
「敵を恐れることはない。せいぜいきみを殺すだけだ。
友を恐れることはない。せいぜいきみを裏切るだけだ。
無関心な人々を恐れよ。殺しもしないし、裏切りもしない。だが、この人たちの無言の同意があればこそ、地上から裏切りと殺戮が、あとを絶たないのだ」
ブルーノ・ヤセンスキー(スターリンの粛清により獄死)

 この言葉を教えてくれたのは、TBSの先輩の北村美憲さんだ。北村さんは、「お前はただの現在に過ぎない」では、「第二回放研集会に、『放送労働者の歴史的任務』という壮大なレポートで、運動を想像としてとらえ、想像を運動としてとらえる視点を主張したTBS・北村美憲らの提言は一体どこへ消えてしまったのであろうか」(156ページ)という文脈で登場している。それにしても、北村さんは「社報」新年号の年男のコメントとしてこのヤセンスキーの言葉を書いたのだから、なんとも恐れ入る。
 さてところで、「無関心」と「空疎で過剰な関心」が入り乱れる現在、テレビジョンはその人々にどう関わりうるのだろう。

(5) 内村剛介氏の感想
 内村剛介氏は、著書「わが思念を去らぬもの」(1969年3月 三一書房)の「あとがき」で、「“あとがき”を見て、あるいは“目次”を見て本文の見当がつくといったようなことのない本に、例えば萩元・村木・今野著『お前はただの現在に過ぎない』の如き体裁の本」にしたかった、と書いている。

(6) 放送労働者
 「放送労働者という言葉は、死語に近い」と書いた。しかし、実態は違う。第一に、取材であれ、演出であれ、それはやはり「労働」なのだ。だが、現代では放送に限らず「仕事/労働」の意味を問うことが成立しなくなっている。第二に、放送局の社員制作者の仕事は、その数倍の派遣、業務委託、アルバイトなどの<放送労働者>たちの労働力なしには成立しない。1968年当時より、放送時間は延び、購入番組は減り、つまり制作番組は増加している。テレビジョンを全体として考えれば、制作会社の制作行為の位置づけも含め、こうした放送における「仕事/労働」に関する意識のありようと産業構成の問題を抜きに、<テレビジョンとは何か>、<テレビ的表現は可能か>、という問いは不毛であろう。



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