TBS-MRI TBSメディア総合研究所
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メディア・ノート
    Maekawa Memo
No110.
[自分のいるところが、テレビジョン]
-村木良彦さんを偲ぶ会-
2008.11.15

 1月に亡くなった「村木良彦さん」を偲ぶ会が開かれた。献杯の後、生前の村木さんの作品とともに、村木さん自身が自らテレビジョンについて語る映像が上映された。本当に今目の前で本人が語っているような思いを感じて、正直に言って、少し衝撃を受けた。テレビマンユニオンの浦谷さんから、スピーチを頼まれていたのだが、用意していた言葉が虚しいと感じた。
 その中で、村木さんは「30年前と(あなたは)変わりましたか」という質問に、「変わってないと思います。ぼくは、自分のいるところがテレビジョンだと思っています。」と答えている。インタビューの時期は、1990年頃あるいはもう少し後だろうか。ちょうど、トゥデイ・アンド・トゥモロウの時代のように思えた。ぼくが二度目に村木さんとハイビジョンのことなど色々話をしていた頃だろう。
 先日の、社内講演で「自分のいる場所がテレビの現場」だという話をした。この言葉は、確かに村木さんと会話しながらそう思ったのだが、多分村木さんの言葉に強く刺激されたのだろう。ただ、例えばTBS闘争の後に、村木さんと重たい会話を重ねつつ「テレビを選び返す」という意識を確かめ合ったことがあるように、ある部分で共通の思考回路が働く傾向があったことを考えると、ぼくの意識の中でも「自分のいるところがテレビだ」と思っていた、あるいは、そう思おうとしていたのだと思う。そう思うことで、「今、ここにいる自分」を確認したかったのだろう。そのとき自分を支える言葉というのがいくつかある。それについては、また書くこともあるだろう。

 スピーチの順番が来て、結局用意していた言葉を、ほんの少し村木さんが映像で語っていたコメントを取り込みつつ次のような話をした。

 村木さんとは、二度の出会いがあります。そのことは、TBS「調査情報」にも書きましたし、TBSメディア総研のホームページにも書きましたが、この場でも少しお話をさせて頂きます。

 一度目は、1968年のTBS闘争の最中から、70年初頭テレビマンユニオンが結成されるまでの間でした。村木さんが、制作の場から引き離され、TBS闘争の高揚も潮が引くように拡散していく中で、村木さんは本当に一人で厳しい状況に向き合っていました。その時期に、ぼくは比較的頻繁に村木さんと会話をするようになり、新宿ゴールデン街でしばしば酒を飲み、また一緒に原稿を書く機会がありました。その一つが、田畑書店から出版された「反戦+テレビジョン」です。この本では、ぼくは深井守という名前を使いました。
 この時代を中心にしたテレビジョンについての考えを、村木さんは「ぼくのテレビジョン」という本にまとめていて、そこには「疾走しながら叫んだいくつかの断片を提示することもまた、<わたしにとってのテレビジョン>にほかならない」と書いています。 いま、この「ぼくのテレビジョン」を読み返すと、村木さんのテレビ的思考は三つのテーマによって構成されていたことが分かります。
 第一は、「<時間>と<想像力>の同時進行がテレビジョンである」というテーマです。そして第二は、このテーマはテレビがエレクトロニクスメディアであることによって成立するのであり、したがってテレビジョンは情報技術の革新に常に向き合わなければならないという認識です。村木さんは、早くもコンピュータ技術がテレビに及ぼすであろう影響を見抜いていました。第三は、テレビジョンの政治性についての緊張感です。ヒットラーやゲッペルスが、例えば映画というメディアをどう理解していたのか、それを巨大なエレクトロニクス・コピー・メディアであるテレビジョンの「もう一つの将来」として恐れていたのだと思います。
 この三つのテーマを、村木さんはテレビマン、すなわち表現者にして労働者であるテレビマンの視点から読み解き、「自己の商品化」も含めてテレビジョンに関わろうとしていたのだと思います。
 テレビマンユニオンが結成され、ぼくはそれに参加しないという選択をしました。「参加しないという選択」の意味は何だったのか。村木さんとの会話や共同作業の中で、自分とテレビジョンの関係について考えたことは、ぼくのメディアについての思考の原点となっていますが、それは同時にテレビマンユニオンに参加しなかったことの意味を、その後も自分の中で確かめ続けることでもありました。こうして、最初の出会いは終わります。

 二度目に、村木さんと時間を共にするようになったのは、1984年に村木さんが仕事の拠点をトゥデイ・アンド・トゥモロウに移した頃でした。当時高品位テレビと呼ばれていたハイビジョンに強い関心を持っていて、エレクトロニクスメディアとしてのテレビジョンの変容を、ハイビジョンに見たのだと思います。ちょうどその年に現場からメディア開発という場に異動していたぼくは、これはとてもオモシロイ、いまのテレビのシステムを変えるチャンスだと思ったものでした。村木さんは、ハイビジョンに関心のあるいくつかの企業に提案して「ハイビジョン・マガジン・プロジェクト」を立ち上げ、実験的な制作を試みました。TBSも参加しています。実験的というのは、技術的な意味であると同時にもちろん表現としての実験の意味もありました。
 クリムトの作品をウィーンでロケした「記憶の海」、日本各地の近代の廃墟を巡った「近代遺跡の旅」、それからさきほど短く紹介されましたが、急遽ベルリンに飛んで「壁」の解体を記録した映像など。「近代遺跡の旅」では、「お前はただの現在に過ぎない」の自己プロフィールで「カメラマン相澤征治を知る」と紹介されている、相澤さんと30年ぶりに仕事をするということもありました。長崎「軍艦島」のロケは大変でした。「テレビ映像を消費財から蓄積財へ」というようなことを議論したこともあったように思います。
 トゥデイ・アンド・トゥモロウには、元気な三好さんと静かな唐沢さんがいて、プロジェクトの会議の後に、ぼくはそのまま残って、あるいはそうでない日も時々仕事の帰りに立ち寄って、村木さんが好きだったオールドパー・スペリオールを飲みながら暫く話し込んだりしたものでした。
 しかし、ハイビジョンは、NHKはもちろん民放各局も色々動き出し、結局は「ただのテレビ」になるような気配が出始め、実際に現在はそうなっているのですが、村木さんの考えていた方向とは違う展開になろうとしていたように思います。
 そういうこともあったのでしょう、村木さんの関心はもう一つの情報技術革新に向かっていきます。それは、CNNが典型ですが、アメリカのローカルテレビ局のNY1やオレンジカウンティーでコンパクトに取り込まれつつあった、コンピュータ技術と連動したニュース・システムの改革です。ビデオジャーナリストという言葉に示されているように、まさに、テレビマンが情報を<見る>ことから、それを形にして送り出すまでを一貫して作業する仕組に、村木さんはテレビジョンの構造転換の可能性を見たのだと思います。
 そこから、MXテレビのゼネラルマネージャーへの道は、村木さんのテレビ論的論理として直結するものだったのでしょう。新しいテレビ局の構築は、TBSとテレビマンユニオンの仕事のテレビ的帰結になると考えていたのではないかと思います。MXの仕事が本格化する頃に、村木さんとの二度目の出会いも終了することになりました。
 残念ながら、MXの仕事は村木さんの思うような形になりませんでした。
 若し、という言葉が適当かどうかということはありますが、若し村木さんが、今MX、あるいはどこかのテレビステーションを仕事の場にしていたら、おそらくテレビとインターネットを組合わせた新しいジャーナリズムのあり方を作り出そうとしていたであろうと、ぼくは確信しています。
 そしてそれは、村木さんが「ぼくのテレビジョン」で出した三つのテーマ、「時間と想像力の同時進行」、「情報技術革命との向き合い」、「テレビジョンの政治性との緊張関係」を、テレビ的行為として示そうとしたに違いない、という思いにつながります。これは、すぐれて「テレビとは何か」、「テレビジョンに何が可能か」、「テレビ的表現はありうるか」という、TBS闘争で問われた問いの現在的意味であろうと思うのです。

 いま、ぼくは哲学者鶴見俊輔さんの「悼詞」という本を読んでいます。鶴見さんに縁があった方で、亡くなられた120人を超える人々について、これまで書き記したものを本にまとめたものです。その中で、鶴見さんはこう書いています。

 「今私の中にはなくなった人と生きている人の区別がない。死者も生者もまざりあい、心をいききしている」と。

 鶴見さんは86歳です。ぼくには、とてもまだそういう心境には至りません
 ただ、村木さんのことを考えると、死者である村木さんが生者であるぼくの中を「行き来している」と、やはり思えてくるのです。でも、「こっちに来ませんか。もっと色々話ができますよ」と呼ばないで欲しい。それよりも、もう暫く、村木さんのことを思いながらこっちで酒を飲むことにしたいと思います。

 人には、そのとき自分のあり方を確かめるいくつかの言葉がある、と書いた。鶴見さんの本に登場する人々の中にも、ぼくが刺激を受けた人が何人かいる。そのことなども書いてみたい。だが、今回は、村木さんのことだけにしよう。



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