
No112.
[洞窟型=映画とテラス型=テレビ]
-「狩猟と編み籠」(中沢新一著)を読んで- |
2008.12.15 |
中沢新一さんの「狩猟と編み籠-対象性人類学II-」(芸術人類学叢書・講談社)を読んだ。中沢さんの講義録は、ドキドキする面白さがある。今回も、飽きずに終わりまで読み通した。とはいえ、要約するのは容易ではない。だから、以下は要約ではない。
旧石器時代後半にホモサピエンスの脳に革命的変化がおこり、それにより人類が獲得した流動的知性の構造は、現代人においても変わることがない。この流動的知性の働きにより、人類は「洞窟的=結社・組合=映画的構造」と「テラス=共同体=テレビ的構造」という、異なる知識形態を手に入れる。中沢さんのテーマは、主として前者にあり、「洞窟的」(洞窟で行われるイニシエーションの際に経験する闇の中で精神が起こすイマジネーション活動から、宗教と芸術がうまれ、また貨幣の誕生もこうした知的活動によるものだという。そして、映画はまさにこの構造の産物であって、それは非コミュニケーション的表現、直接的な全体認識を要求するものだとしている。
これに対して、テレビはホモサピエンスの日常生活の場であるテラス(崖の中腹などの日当たりの良い場所)的な心の構造によるものである。テレビ的な心は、コミュニケーションを前提としているのであって、それ故に日常を超える、あるいは日常に穴を開ける宗教的・映画的危うさを排除しようとする。こうした人類の精神の働きは、現代になって技術開発によりテレビとして実現する。テレビ的表現は、イメージの全体を分解して、その情報を時間軸に沿って配列(時間性によるコード化)する。映画もテレビも、どちらもホモサピエンスの精神活動にその根拠を持っているのだが、中沢さんによれば、「洞窟の外に出ようとしたイメージが、テレビという装置を求めたのです。それによって、テレビは映画とは根本的な違意を持った、イメージの組織体を生み出すことが出来ましたが、その見返りとして、洞窟的メディアである映画に秘められた潜在能力の多くを失ったことも、事実でした。テレビを生み出したのはコミュニケーションへの強い欲望だったのですから、これは当然のことです」と述べている。
この本で、テレビについて述べられているのは終わりの約五分の一であって、現代人としてのホモサピエンスの心の活動を、映画に焦点を合わせて語ろうとする意図は明確である。繰り返すが、新石器時代が人間にもたらしたもの、モーゼの一神教革命とキリスト教の誕生の意味、人間のこころの活動と芸術、そして贈与から交換へという経済行為における貨幣の変質など、実に興味深い観察と推論が重ねられていて面白かった。最後にテレビが登場し、その位置づけもなるほどと思うところが沢山ある。しかし、最もテレビ的な番組はヴァラエティー(例としてルーシーショウ)であるとし、そこにテレビにおける虚構と現実との混在をポストモダン状況の先取りとして見るとともに、テラス的構造に伴う規制=「コミュニケーションの攪乱の危険性」の排除構造が成立するというのは、「チョッと待てよ」という感じがした。
というのは、もちろんテレビはテラス的=日常的であるということにより、「洞窟的危うさ」の排除という規制のあり方はその通りなのだが、テレビにはテレビの「危うさ」があるのである。まさに、それは中沢さんが見抜いている基底部分の「時間論理による強力なコード化」なのではないか。というのは、時間そのものは物理的に規制できないからだ。コミュニケーションを前提にして登場したテレビは、コミュニケーションという想定を超えた情報を瞬時に送出し、受信されてしまうことがある。このノートで挙げた例でいえば 9.11の中継がそれだ。だからこそ、権力は電子メディアについて免許制度あるいは国営化を基本としているのである。
もちろん、物理的な特性と社会的機能は必ずしもシンクロしない。様々な政治的ベクトルの中で、テレビは中沢さんのいうテラス的規制に見事に適応している。ただ、「その一瞬」がありうるからこそ、日常の外へ身を投げ出す(テレビ的フィギュール?)危うさと、それを監理しようとする権力との対峙という緊張感がテレビの現在的な存在理由であろう。映画だって、ポテンシャルに「無限への穴=フィギュール」を構造的に持っているにも関わらず、常に穴の向こうに抜け出すものとは限らないのだ。テレビの時間性が持つ二重構造、つまり日常のコミュニケーションを基底としながら、非日常に通低してしまうメディア構造は、やはりスリリングな仕組なのである。規制も表現もそこに関わる。
中沢さんは、最後に「しかし、映画については優れた研究がすでに数多くあらわれているのに、テレビについては、マクルーハンの先駆的研究以後、そういう研究はほとんど手つかずのまま放置されているのが現実です。ところが、世界はますますテラス化しテレビ化しつつあるのですから、これを放置しておく手はないでしょう。映画のような知的興奮を誘う対象ではないかも知れませんが、たしかにそれは取り組むに値する研究です」と結んでいる。確かに、映画ほどの神秘性はないであろう。日常とはそういうものである。しかし、「時間性」という映画にはない構造は、別の意味で意識の空間性や時間の多様性、そして非日常(映画的・宗教的世界)との関係の直しを含む、様々な「知的興奮」があるはずだ。しかし、それをテレビがまさに「放置してきた」のは、その通りである。
ところで、この本の「イメージの富と悪」という第三章に次のように書かれている。交換という経済行為の体系は、その前身である贈与の体系を引き継いでいるのだが、その贈与には「贈与の環を断ち切って『無』の中に跳躍していってしまおうとする衝動」があるのであって、実は交換もこの『無』を根拠しているとした上で、「そんなことを宣言する勇気は交換体系にはなく、ただ周期的に恐慌に陥るたびに、『無』の淵をのぞきこむことによって、いわば『受動的に』自分の根拠である『無』の前に立ってきたのでした」と書いている。昨今の金融危機について、色々な人が解説しているが、この中沢さんの指摘ほど「なるほとど」と感服したものはない。
さらに、もう一つ。エイゼンシュテインについて触れながら、芸術の最高の形態は音楽だ、と語っている部分がある。それを読みながら、亡くなった萩元さんや実相寺さんが最後の仕事とて映像より音楽に傾斜して言ったのはそういうことなのだろうか、と思ったりした。音的感性も才能も欠けているぼくには、とても分からない。
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